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置き去りにされた春

 今の私達に恋は難しいよ。

 どうしてそんな事を彼に言ってしまったのか、実はよく覚えていない。

 あれからまだ一年しか経っていないのに、人間の記憶はいい加減だ。言ったという事実は覚えていても、それがどうしてあの日、私の口から飛び出たのか、理由がわからないんだから。

 

 その日は幼馴染である次郎と一緒に出かけていた。毎年、春には近所の土手沿いにある桜並木で歩くだけのお花見をする。とはいえ、大通りから外れた川沿いだし、駅からも少し離れているせいか人通りは普段から少ない。雑草がのびのびと育ち、この場所に根付いた喜びを全身であらわしている。どうしてそんな場所に張り切って桜を植えたのか。お花見以外にはほとんどこの道を通らない私達も、律儀に咲く桜達だって知るよしもない。

 屋台もぼんぼりもない。花が咲いていても、結局ただ素通りされるだけの道。その途中で二人の足を止めたのは、さっき私が放った一言だった。

 揃って高校二年生に進級した春。同じマンションに住み、小学校低学年から付き合いのある私達は奇跡的な偶然、というよりは大多数が選ぶ道を無難に選び取った結果、一度も進路を違える事なく学校生活を共にした。帰り道も一緒で過ごす時間も長いし、幼馴染だし、なにより同年代の中では大人びて見えた彼に恋心を抱くのにそう時間はかからなかった。

 思い返せば小学校の頃は男子や女子という隔たりもなく、学校では同じ遊びをして過ごした。鬼ごっこをし、鉄棒に挑戦し、木登りなんかもしたっけ。明確に線引きがなされ始めたのは、中学校からだったと思う。まず、お互いに着る物が変わった。男子生徒はズボン、女子生徒はスカートと制服が指定される。校庭から滑り台やジャングルジムが姿を消し、木にも登らなくなった。代わりに、授業時間以外には各々が所属する部活動の雑事に追われた。

 それまで他の友達がする事に付き合い、自分がしたい事を主張しなかった次郎が、初めて自ら声をあげて部活に入った。選んだのは演劇部だった。

 しかし、たった数回の体験入部に参加しただけで次郎は結局、帰宅部になってしまった。それは高校に進んでも同じ。いや、本人に帰宅部と言うと怒るのだが。

「恋は難しい、か……使い古された文句だが悪くない。けど、もう少し切ない要素が欲しかったな。シリアスな言葉なんだから。そうだろう? さあ、もう一度だ」

 なにやら変な方向に個性を開花させてしまった、自称劇的日常同好会部長にして、同好会のたった一人のメンバーである幼馴染は、ぱちんと指を鳴らすと口角を上げた。

 いわく、彼が求めるのは虚構の芝居に入り込む技術ではなく、日常をまるごと芝居に変えてしまう魔法なのだという。高校二年にもなって何を言ってるんだ。演劇部になじめなかったのも、そもそもこの発想が原因である。

 しかし、これではただ現実と虚構の区別がつかない困った人間だ。何事も行き過ぎると日常生活に支障をきたす。いくら昨日見たバラエティ番組の話題で盛り上がれようと、数学の小テストが嫌だという悩みを共有できようと、虚構に対するなみなみならぬ執着が、次郎をほとんど完璧に変人へと仕立て上げていた。

 私は恋人が欲しかったのであって、変人が欲しい訳じゃない。周りが彼氏を作り始めて、焦る焦る。おまけに、あんたの彼ってあの次郎くんでしょ? なんて笑いながらネタにされた日には死にたくなる。次郎がまともになってくれなきゃ付き合ってらんない。

 普通に幸せになれればいい。みんな、当たり前のように学校生活を楽しんでるっていうのに、どうして私はかれこれ五年近く、頭がおかしくなりそうな袋小路にはまってしまってるんだろう。

 押し黙った私に、目の前の次郎は最初こそあれこれ物まねをして機嫌を取ろうとしていた。ワイシャツのボタンを掛け間違えたまま駅についてしまったサラリーマンのまね。ついさっき食べたにも関わらず朝食が出てくるのを待つおじいちゃんのまね。喉をチョップしながら声を変える、古きよき宇宙人のまね。それら全てが不発に終わると、困ったように首を傾げた。そして普段から小道具だと称して不要なものばかり詰め込んでいるボストンバッグを漁ると、中から何の変哲もない赤い裁縫糸を取り出した。

 赤い糸。適当な長さを鋏で切ると、おもむろに一番近い桜の木へ結わえだした。

「俺はお前の事が好きだ」

 突然の告白に唖然となる。

 そんな事、小学三年生の時に初めてバレンタインチョコをあげた時だって、中学二年のキャンプでレクレーションのペアになった時だって言われなかったのに。というか、どうして今の私達じゃ恋ができないって伝えた直後に、そういう事を言うんだろう。

 呆然とする私に向かって、まるで駄々をこねる子供を諭すようにゆっくりと語りだした。

「俺は、お前が彼氏にしたくなるような男に必ずなる。他の奴らの意見に流されるだけの、無個性な昔の俺じゃなくて」

「待って、でも」

 私は、その周りと巧みに付き合っていける次郎に恋をしたのに。

 訴えを投げかけるよりも早く、彼は言葉の続きを畳み掛けてきた。

「だから、この俺となら恋ができるって思えるようになったら、ここへ、赤い糸を結んだ木のところに来てくれないか。そこで改めて、お前の気持ちを聞きたい。絶対に、お前の気に入る彼氏になってみせるから」

 言い終わるよりも早く、いかにも重たそうな鞄を持ち直すと脇目も振らず次郎は駆け出していってしまった。うすぼんやりと陽光が透ける桜のトンネルの向こう、とっさに伸ばした手よりもその背中が小さくなる。

 追いかけて、いつもみたいに文句を言う事だってできたのに、その日はどうしても、その場から動けなかった。ひらひらと、蝶結びで固定された糸の余分が風に揺れている。すぐにほどけてしまいそうなその頼りない目印から、目が離せなかったのだ。

 

 それから季節は巡り、思わぬ告白劇と一方的な約束をした日から一年が経とうとしている。結局、一度も例の桜には行けずにいた。

 とはいえ、私の中でそれが一種のトラウマとなってしまっているのも事実である。こんな風に、月に何度もあの日の夢を見るのだから。どのような形であれ、ずっと慕っていた幼馴染から告白を受けたのだし、時間が流れればこの思い出も美化されていくはずだ。

 そう、信じていたのだが。

 ベッドから体を起こし、ぺたんと床に足をつく。窓際へと寝ぼけ眼をこすりつつ歩み寄ると朝日を浴びるべくカーテンを開けた。

 さんさんと降り注ぐ日の光に目がくらんだのも束の間。輝くガラスに映った寝起きの私の顔、その背後に見える室内の光景に思わず飛び上がった。うっすらとではあるものの視認できたそれは、自分の部屋にあがりこみ、恭しく頭を垂れた次郎の姿だった。

「ちょっと!? 朝からいったい何事……」

「おはようございます、お嬢様」

「お、お嬢様……?」

「朝食の支度が整いましたので、お声をかけさせていただきました。お着替えも手伝いましょうか?」

 起きたばかりだが、さっそく気が遠くなってきた。

 そう、お前の気に入る彼氏になる宣言をした次郎は、その通りにこの一年間を過ごしてきた。ある時はミステリアスな秀才キャラ、ある時は快活なスポーツマンキャラなど。手を変え品を変え、ついでに時と場所も選ばずに。正しく神出鬼没とはこの事だ。礼の姿勢を解くと舞台衣装めいた燕尾服の裾をひらりと揺らし、次郎執事は幼馴染の次郎に戻る。

「今までより少し思い切った演出にしてみたんだが……これもお気に召さないか」

「うるさい! っていうか、そもそもなんで私の部屋にいる訳?」

「朝だろうが構わず、この劇的な展開……芝居らしくっていいだろ? それに甲斐甲斐しい執事にお嬢様扱い、乙女の夢の塊だ。これこそ正しく魔法」

「で、本当のところを言いなさい。というか、言え」

「……お前のお母さんにお願いして家にあげて貰って、ついでに朝食を作るのを手伝いました」

 わかっていたけど、どうもうちの母さんは次郎に対して甘い。もりもりと美味しそうにご飯を食べたり、食事が終われば率先して皿洗いをしたりと気を使う彼を、昔からまるで実の息子のように可愛がっていた。

 眉間に指を当てながら暫く気を落ち着ける。あれこれもっと言いたい事はあるのだが、この一年ではっきりわかった事がひとつだけある。

 それは、他の誰でもない私が駄目だしをしない限り、この茶番は終わらないという事だ。

「……次郎執事は却下。私、確かに優しくされるのは好きだけど、お世話されたい訳じゃないし」

「そうか……これも駄目か」

 今回もそうだが、毎回毎回こんなに気合を入れて。その情熱をもっと生産的な方へ回してくれたっていいだろう。こんなに劇的に変わらなくても、以前までの次郎が好きだったって、どうして気づいてくれないんだか。

 寂しげに目を伏せる彼に思い切って言ってやろうと思ったけれど、またしてもそれは遮られてしまった。

「まあ、まだネタが尽きた訳じゃないしな。こうご期待、という奴だ。ところで、お嬢様。そろそろ支度を始めないと、遅刻してしまいますよ。お召し変えのお手伝いを……」

「いらないからね? そっちだって、早くまともな格好に着替えなさいよ!」

「ああ、俺は大丈夫だぞ。ズボンとシャツは制服のだし、ジャケットだけ着替えればオッケーだ。しかし、俺の心配をしてくれるなんて相変わらず優しいな」

「私が心配してるのは、あんたの頭だけだってば。ほら、さっさと出てって。母さんの手伝いでもしててよ」

 お腹もすいてるけど、この傍迷惑な即興劇に時間を取られたせいで、支度を急がなければならないのは事実だ。一度リビングに行ってから、またここに戻って着替えをするのも効率が悪い。では失礼いたします、と次郎執事が姿を消したのを確認してから、私は外からの視線を遮るべく、再びカーテンを引いて着替えを始めた。

 

 学校につくなり、昇降口で待ち受けていたクラスメイトの千鶴に、今日は一段と酷い顔だと額を小突かれた。

「どうせ、また次郎くん関連でしょ」

「そうなんだけど……朝の挨拶より先に手が出るってさ、女子としてどうなの、千鶴」

「ごきげんよう。今朝も小鳥が思わず歌いだすような、清々しい朝ですわね」

「とりあえず、あんたが女子と聞いて何を連想するかはよくわかったわ」

 下駄箱が隣同士の私達は、並んで靴を履き替える。気遣わしげな沈黙を挟んで、千鶴は話の口火を切った。

「ろくに寝れてないんじゃないの。しんどいなら休みなって。ノートとか心配しなくていいから」

「まあ、最近よく夢にも見るしなあ……」

 寝ても覚めても次郎の事ばかり。深く考えなければこの上なくロマンティックな状況だ。実際は、元々変わり者だった幼馴染のギアをフルスロットルにしてしまった例の日の悪夢を見て、目が覚めていればどこからともなくやって来る次郎の演技に付き合わされるだけなのだが。今朝の執事姿だって、本当に何を考えているんだか。そもそもの目的が理想の彼氏になる事だっていうのに、どうして使用人になる。それは恋人同士ではなくて、雇用主と従業員の関係だ。もはやビジネスだ。

 爪先をすのこに二度打って、上履きの中に足を押し込む。やっぱりきちんと言うしかないんだろうな。あのお花見の日に言いそびれた事を。何かになろうとしなくていい。そのままの次郎が好きなんだからという事を。

「――どっかでお祓いとか、してもらったら?」

 しかし、横にいる千鶴の提案は斜め上をいく奇策だった。お坊さんに諭されれば、次郎も目が覚めるだろうか。いや、今度は坊主にチャレンジだと張り切り、そのまま頭を丸めて仏門を叩く、なんて流れになったらどうする。やりかねない。あいつなら、やりかねない。

 それにしても次郎にお祓いをするなんて考えもしなかった。それを真面目くさって言うものだから、思わず噴出してしまう。

「あはは、そうかもね。お祓いしたら、憑き物が落ちるかも」

 もしも、あの演技狂に憑いてるとしたらなんだろうか。諸々の事情で舞台に立つ事ができない無念を抱えた俳優? いやいや、暦の上では春でも、朝はまだ冷える時期に怪談とか勘弁。

 あくまで冗談だと受け止めたが、千鶴は意外にも食い下がってきた。一人で抱え込むなって。

「まあ……大丈夫だよ。それに、こればっかりは自分で何とかしなきゃいけないし」

 次郎を変えられるとするなら、今の彼をあんな風にした自分なのだと思う。結局、あの困った幼馴染は、私が彼氏にしたくなるような男になるために、こんな事をしているのだし。

 大丈夫だから、ともう一度念を押すと、心配性の友人はようやく頷いた。

「けど、何か力になれそうな事があるなら言ってよ」

 そこまで親身になられると、照れくさいやら嬉しいやら。とりあえず、千鶴お母さんと呼んだら肩を軽く叩かれた。あんたを産んだ覚えなんかないし、と言われて確かにと笑いあった。私だって、千鶴に産んでもらった覚えはなかったから。まあ、産まれた時の事なんて、誰も覚えちゃいないだろうけど。

 

 千鶴の不安は的中した。

 ホームルームを終えて迎えた一時間目の授業。教科書を開き、英語の例文を先生が黒板へ書き始めたところで、猛烈な頭痛と吐き気に襲われてお手洗いに立った。

 こみ上げてくる不快感からこれは派手にぶちまけると確信があったのだが、いざ個室に入ると波が引くように不調は落ち着いていった。

 これじゃまるでサボりに来たみたいじゃないか。実際、体調が良くなったのだから喜べばいいのに、気分は晴れなかった。せめて水道で顔を洗おうと、手洗い場へ近づくと。

「……で、そこでアタシは言ってやったわけ。好きな相手も守れなくって、アンタほんとにそれでいいのかよって!」

「うわあ! ちょっ、次郎? こっ、ここ女子トイレなんだけどっ!」

 長方形の鏡に横からズイッと映りこんできたのは、悩みの種である幼馴染だった。ゆるくウェーブのかかった茶髪を指先でくるくると弄ぶ仕草、それにばっちりメイクをきめた外見はなるほど、ぱっと見は女子に見えなくもない。

 でもやっぱり胸板は厚いし手足は筋肉質だし、あえて前向きに評価をつけるなら、もう少しがんばりましょうが精々だろうに。

「大丈夫。体は男だけど、今のアタシ、心は乙女よ」

 ああ、そうか。今度はオネエか。ジェンダーとか詳しく知らないけど、本人が自覚する性を尊重するべきというのは何となく頷ける理屈ではある。じゃあ女子トイレにいても問題はないのかもしれない。

「……いやいや、でも次郎、それただの演技でしょ! なに大真面目な顔で言ってくれてんのよ、危うく勘違いするところだった」

「ふうん。アンタ、こういうのにグッときちゃう?」

「やめて。顎、クイッてやらないで。頭も撫でないで。もしそのまま壁ドンしてきたら殴るからね」

 なにが悲しくて乙女が夢見るシチュエーションを、ガッカリ女装に身を固めた幼馴染にされなければならないのか。これは新手の罰ゲームなのかもしれない。いや、そうであったならどれだけ良かったか。

 散々騒いだせいか、再び頭の奥で痛みが疼きだす。思わず米神に手を当てると、次郎ちゃんが心配そうに手を伸ばしてきた。

「……大丈夫? 顔色、よくないよ」

「うん、ちょっと調子悪くて……。早退しなきゃ駄目かな、これ……」

「待ってて。いま荷物持ってくるから」

「いいよ、次郎。自分でできる。それよりあんた、誤解されるからさっさと着替えて。次郎ちゃんは却下。まったく……先生にみつかったらタダじゃ済まないよ」

 つまり、こんなの普通じゃないからだ。縋るように次郎を見つめても、彼は全ての言葉を飲み込んだまま黙り込んでいる。やっぱり通じない。私と彼の価値観はあんまりに違ってしまっていた。

 優しい空想の世界へ堂々と逃げ込める時期は、もう終わった。小さい頃は絵本を読んでとねだる事ができた。公然と、ぬいぐるみとおままごとだってできた。誰かと一緒に、たやすく同じ夢を見る事ができた。でも、別々の制服とか、受験とか、その先の未来とかが迫ってくる。頭上の吹き出しマークに描いていた絵空事から視線を外し、目の前の現実を見ろと世間が無言の圧力をかけてくるのだ。

 追い込まれれば、現実と対決できるだろうか? 答えはたぶん、ノーだと思う。幼い脳と繋がる怯えた目玉はきっと、慣れ親しんだ虚構への逃げ道を必死に探すだろう。

 ねえ、次郎。魔法なんてないんだよ。普通じゃない事こそが特別だった日々はもう終わってしまったんだ。

 私は普通の恋がしたいよ。

 ずっとずっと伝えそびれている事。次郎だっていつか自分で気づいてくれると、勝手に甘えていた。私が口に出せなかった本当の願い。

 鏡を介して交錯する視線を、先に外したのは私だった。

「私……先生にお願いして、早退させてもらって来る。次郎も、一緒にサボってくれない? この後ある英語の朗読テスト、すっぽかしたいって言ってたでしょ。それで」

 それで、どうするかは考えていなかった。半端に切れた言葉の続きを、次郎は軽やかに継いだ。

「花見、するか。去年と同じようにさ」

 そうだ、そうしよう。去年と同じように。その優しい提案にゆっくり頷いて歩きだした。

 授業中のため、しんと静まり返った廊下へ出る。冷え冷えとした空気の中、早退を申し出るため職員室へと向かった。

 

 学校を出てから暫く歩くと、気分の悪さはほとんど無くなっていた。外の空気に触れたのが良い気分転換になったのだろうか。春特有の霞がかった空を仰ぐついでに、ゆっくりと深呼吸をした。

 桜が咲いている並木道へは、交通量の多い交差点を通らなくてはならない。大通りであるなら信号機も設置されようが、一本奥まった十字路であるために交通整理の要は通行者の譲り合いと警戒心という心もとなさである。

 その上、悪い事に大通りとほとんど平行して走っている道のため、混雑を嫌って抜け道として利用する車が多く、必然的に交通量も増えるのだ。

 交通量が多い場所では事故が起こる確率も高まる。

 幸いにして死亡者が出たという話はほとんど聞かない。ただ、ゼロではないのもまた事実でもあった。近々、信号機が設置されるという噂もあるが、それも実現するかどうかは怪しいところだ。

 交差点に差し掛かる手前で、前方から乗用車、右手からバイクと見事な三竦みに陥ってしまった。じりじりとそれぞれが速度を落としながら出方を窺った結果、辛くも歩行者である私が優先権を得たようだった。小走りで渡ると、ノーマークであった左手から自転車が突っ込んでくる。

 けたたましく鳴らされるベルに追い立てられるようにしてなんとか渡り切った。文句のひとつでも言ってやろうと振り返ったが、既に向こう見ずな自転車の姿は大通りへと消えた後だった。

 すっかり苛立ちの行き場をなくして、ぽつねんと立つカーブミラーを睨み上げた。

「まったく。これじゃ、鏡があっても飾り同然だわね」

「まったくだ。五分ほど時間をくれれば、俺が見事にこの鏡の無念を演じきってみせるが……」

「いや、そういうのはいらないから」

 鏡の無念とはなんだ。それをどのように表現するのか多少の興味はあったものの、そんな事を言ったら張り切って道路の角にぽつねんと立ち、案山子のように一日中立ち尽くしているのだろう。新手のパントマイムか、そうでなければ前衛芸術の作品か。いずれにせよ、近所でも屈指の危険道路でそんな真似はやめてほしい。

「学校の登下校時間には、ボランティアが立つようになったみたいだけどな」

「え?」

 いつもおふざけしか言わない次郎の口から、現実的な話題が出てくるとドキリとしてしまう。こちらの動揺も知らないで、幼馴染は平然と話を続けた。

「お前も知ってるだろう。ここで車にひかれた人の中に、うちの高校の生徒もいたんだよ。それで、PTAの有志が交代で立つようになったんだ」

「……そう、だっけ?」

「おいおい。まだ寝坊助さんなのか。忘れるほど昔の話じゃないだろう。散々学校でも騒がれた事故だし」

 見上げていたカーブミラーの丸い視界から、次郎が消える。背を向けて先に歩き出してしまった。さみしそうな背中が呟く。

「第一、その事故が起こったのはまだ去年の話じゃないか」

 

 それから私は一言も発さずに黙々と歩いた。次郎も珍しくおしゃべりな口を閉じたまま住宅街を抜けていく。まだ授業が行われている時間に制服姿で歩くのは落ち着かなかったが、幸い静まり返った道に人影はない。

 時々、開いた窓の隙間からピアノの音が聞こえる。スローテンポの曲なのに、何度も何度も、同じところで間違えてしまうようだ。不自然に途切れた続きは、また数小節前に遡って繰り返される。

 足を止めて、次こそは前に進めるだろうかと期待をして聞き入った。しかし、予想に反していつまでも、奏者が先の旋律を聞かせてくれる事はない。音を間違える度、指が滑ってしまう度に、私は心のどこかで安堵しているのに気づく。

 上手く行っていないのが自分だけではないという事。絶えず同じ個所をさまよう演奏は、好きなだけ堂々巡りをしたって良いという仄暗い安心感を連れてきてくれる。

 一方的な共感は、たった一度の成功によってぱちんと弾けた。たどたどしくも未知の音をなぞり始める鍵盤の音に、ようやく目的地を思い出した。あれほど縋るように聞き耳を立てていた音色も、もう耳に入らない。

 無責任な春風に急かされて、桜並木が続く土手の上へようやく辿り着いた。目印に結び付けておいた赤い糸は、解けてしまったのか、切れてしまったのか。ここだと思った場所では見つからなかった。

 だから、不確かな記憶を手繰りながら別の木を探した。もしかして間違えたのかもしれない。そう、だって桜はこんなにいっぱい植わってる。しかし、果たしてこんな事に意味があるのだろうか。人間の記憶なんて、本当にあてになんかならないっていうのに。

 吹き渡る風が花びらをもぎ取って、渦を巻きながら過ぎていく。地面の感触が不確かだ。ふわふわと、桜色をした綿の上を歩いているみたいに。

 脳みそが水飴にでもなったようだった。それを渦でぐるぐるかき回されて、強い眩暈を覚えて立ち止まる。近くで花を結んでいた桜の幹に背を預けて目を閉じた。

 深呼吸をひとつ。

 ポケットを探ってコンパクトを取り出す。開いた鏡面には疲れきった自分の顔が映った。

 両手で鏡を持ち直し、鏡の世界へ入り込むように見つめる。するといつものように脇から顔を出した次郎が、心配そうに口を開いた。

「大丈夫か? 顔色が良くないぞ」

 問いかけるのは私の声。

「大丈夫。ちょっと、考えごと」

 当然、答えるのも私の声だ。だってここには私しかいないんだから。

 鏡像から視線を外し、薄曇りの空を仰ぐ。吹き渡る風に乗って、子供達の笑い声が微かに聞こえた。それ以外に音はない。

 次郎が突然の交通事故でこの世を去ってから、もうすぐ一年になる。

 

 こんなの普通じゃない。そんなのわかってる。なぜって、他でもない私自身が、ずっと普通というものに執着してきたからだ。

 誰かと共有できる、当たり前の悩みだけを抱えていたかった。定型文で伝わる、簡単な幸せが欲しかった。そうやって暮らしている人達が、なんだか安心して見えたし、楽しそうだったからだ。

 同時に、恨めしい思いに駆られて呪文のように唱え続けた。そういう普通の暮らしをしている人って本当にいるんだろうか。それって、単なる絵空事じゃないの。

 魔法とか奇跡とか、そういったものは存在しないとすぐ一蹴されるけど、普通なんて絵空事だと言う大人は周りにいない。誰もがこぞって、自分こそが普通であると声高に主張している。まるで何かに許してほしいみたいに。

 そうだ。きっと誰も、大人が望んだ理想の子供になれなかった。子供はコンプレックスをかさぶたみたいにくっつけて、時間が経てば勝手に大人になる。もうジャングルジムにはのぼれないから、山にのぼる。滑り台を滑れないから、ジェットコースターに乗る。おままごとができないから、結婚をして家庭を持つ。本当の大人がわからないから、子供の時にした遊びをまねて生きていくのではないか。

 恐る恐る、周りにいる人達とお互いの普通を確かめ合いながら、かさぶたに絆創膏を貼って、過ぎる時間が私を大人にしていく。

 なら、このかさぶただって隠してしまおう。そうして、こっそり一人だけの時間に垣間見て、そっと撫でてやろう。皆と一緒にいる時は普通でいるから。そうでない時は、おままごとをして過ごそう。鏡を見て、私だけの次郎とおしゃべりしよう。

 そうして、かさぶたが自然に剥がれるのを待つんだ。

 いつかは大人になる。コンパクトをそっと閉じて握りしめた。いつか必ず、どこにでもいる普通の大人になるから。