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キリエの荷物

 赤い衣をはためかせて少女が駆けていく。

 冷たい雨の降る夕刻だった。重苦しく天を塞いだ鉛色からは、尽きぬ落涙を思わせる悲哀を帯びて滴が落ちる。

 石畳を裸足で走り続けたせいで、赤く切れた皮膚を労わる暇もない。乱れる呼気に嗚咽が混じり、頬に叩きつける雨が涙に混じって口の中へ入る。

 何にも構っていられない。とにかく、逃げなければ。

 路地の隙間から飛び出て来た黒い影。突如進路へ躍り出た野良猫を避けようと身を翻すも、かじかみ傷ついた足が言う事をきかなかった。前へ進もうとする意識だけが取り残されて体がついていかない。地面に叩きつけられても尚、彼女は荷物を手放そうとしなかった。

 罵るような鳴き声を残して遠ざかっていく猫の足音を、ぺたりと地につけた耳で聞く。鮮やかな色の着物も随分水を吸ってしまった。重くて、冷たくて。それでも、走らなくちゃならない。追いつかれる前に、逃げなければいけないんだ。

 

 身を起こし、立ち上がろうとして再び地面に崩れ落ちる。もどかしさに勝って速く奔ったのは痛みだった。赤々と視界が明滅するほどの激痛。

 見れば、足首が奇妙な方向へ曲がっていた。なぜ自分がこんな格好になっているのかわからないと言わんばかりに、本来なら石畳へ突いた膝と同じ方を向いているはずの爪先が、途方へ暮れた様子で空を見上げんと捩れていた。

 猫の恨みでも買ってしまったのか。

 生臭い路地裏の中央で座り込み、荷を抱きしめる少女の思考はほとんど停止していた。だって、もう足音が聞こえている。重苦しい歩みは、断罪を迫る斬首台の靴音。汝に罪ありきとあちらからやって来るなんて、酷い悪夢だ。

 しかし、それを言うなら確かに、この少女とて誰かの悪夢ではあった。

 

 いよいよ背後へと近づいて来た追っ手を振り返る。

 宵闇迫る薄暗がりにあっても、男の瞳は蝋燭の灯を映すように煌めいていた。爛々と輝く黄金の瞳は、静かに娘を見下ろす。

「そろそろ鬼事も終いだな。その荷を早く手放して貰おうか」

 相手の目当てが手元の荷物と知るや、色の伏せた面をさっと伏せた。距離を置く事が叶わずとも、けして手元から遠ざけまいと震える腕に力が籠る。

 頑なに心を閉ざす相手に、黒衣の男は腰に帯びた刀に手を置いた。しかし抜刀の気配はなく、あたかも気怠い手を休ませるために遣ったようだった。

「問おう。その荷はお前にとっては無用の長物だ。何にもならず、何にも変える事ができない。だというのになぜ庇うのか」

 雨粒跳ねる地面を、まんじりともせず少女の瞠られた眼が見つめていた。白い唇から幽かな返答が紡がれた。

 あなたにとっては無意味でも、わたしにとってはそうではありません。わたしにはもう、これしか残されていないのです。

 

 剣士は頷きも、否定もしないまま耳を傾けた。抑揚に欠けた声色が次なる問いをかける。

「お前にとっては、それよりもっと大切なものがあったはずだ。だというのに。お前はそれを手に入れるためだけに、他を台無しにした。個を削げば失われる全があると理解した上で。求めたのはなぜだ」

 噛み締めた唇の端が切れて、淡い紅が一条伝う。

 わたしが抱えていけるものは、これしかございませんでした。このかいなへ抱くに、全はあまりに重過ぎます。わたしとて、損なわず手に入れる方法があったならそうしたでしょう。

 

 両者が瞼を落とすのは同時だった。ゆっくりと開かれる仕草すら示し合わせたように同じくあって、剣士は最後の問に至る。

 

「未練があるなら望む場所には辿り着けまいよ。……腐る前に置いていけ。記憶も。荷物も。いずれにせよ、道はここで行き止まりだ」

 

 弾かれたように顔を上げる少女。雨に濡れて、濡れ切った衣の袖から落ちる雫は薄っすらと赤く染まっていた。やがて肩から、背中から。より長く雨粒に晒された場所から着物の色が白く変わっていく。

 元は、白い服だったのだ。

 うわ言混じりにあげた両手が冷え切った頬へ伸びる。ごろりと転がったまるい荷物、結び目の解けた風呂敷から転がり出たものを見て、剣士はゆっくりと膝を折る。やがてそれを無造作に掴むと、抜け殻のように呆けた少女をもう片方の腕で抱き上げ歩き出した。

 

 首無しの死体だけを残し、忽然と姿を消した首と犯人はこうして無事に見つかった。

 頭は戻れど命は戻らぬ。最初から彼女は何ひとつ手に入れていなかったのだとは、他人が諭しても理解できまい。

 されど嘲笑う雨とていつかは止むもの。

 白々と照らす晴れ間が幸かどうかは少女次第だが、どうせ存える責任を果たすなら歩きやすい日を愛せる方が良い。

 今暫くは幼い罪人の歩みを引き受けながら、役者は雨靄けぶる路地の向こうへ姿を消した。