象の群れ

 棒切れを持って象の絵を描く。少女は中腰で、水玉のワンピースをふわふわさせながら、ようやくドラム缶のような円柱を手掛けた。

 つまり、これが象の足なのだ。

 本物は動物園で数える程度にしか見ていないが、多分、本物の大きさはこのくらいだったはずである。

 かさぶたの残る膝小僧に手を置いてその場にしゃがみ、出来栄えをあらためる。でも足の一本だけで、遊び場として許されている道の半分以上を使ってしまっている。一頭まるまる本当の大きさで再現しようとしたら、往来を遮って向こう側まで使わなくてはなるまい。

 

 どうしたものかと象の足に爪を描き加えながら悩んでいると、ひょこりと手元を覗き込んでくる人影が。無関心に顔を上げると、少女の眉間に少し皺が寄った。

「……なに?」

 ごそごそと懐から手帳を取り出し始めた相手の顔を、そういえば近所で見かけた事がないのに気づく。

 知らない人間と話すんじゃないよ――叔母の声が蘇って、少女の耳朶を打ち据えた。

 ヨソモノと話しているのがご近所に知れると、あたしの教育がどうのって後ろ指さされちまうんだからね。

 

「知らないひとと話すなっていわれてるから」

 ようやく開いた手帳に何かを書き始めていた青年を遮って、がりがりと意味のない渦巻きを引っ掻き始める。

 暫くの沈黙。

 また別の文言をしたため始めた青年の先回りをして呟いた。

 

「じゃあ、これから自己紹介をすれば知らないひとじゃないですね、っていうのもダメだよ。それって、へんしつしゃの、ジョートーシュダンでしょ?」

 これだけ言えばさすがにどこかへ行ってくれるだろう。誰かの相手をしていると象の絵がいっこうに進まないので、彼女としてはこの辺りで諦めてもらえると有難かった。

 もしも無理やり手を引っ張られたら、思いっきり噛みついてやろう。

 騒ぎ始める心臓の音を悟られないように口を引き結んだ。その視界の端、地面へゆるゆると呑気に描かれ始めた新たな線に、あっと声があがる。

 青年はキャップをはめたペンで、あろう事かこの落書きに加わってきたのだ。

 実物に忠実な象の足の近くに、ぱおんと現れたのは掌に乗るほど小さな象だった。

 呆気に取られていた少女が、やがてぷふっと噴き出す。

 

「ねえ。これじゃぜんぜんちっちゃくて、本物じゃないよ」

 ほら、ホンモノはこれくらいおっきいんだよ。わたし、見たことあるんだ。

 得意げに指示した足を見て青年は頷くと、また別の絵を描き初めた。

 髪を逆立てた中年女性の姿。

 薄汚れたエプロンに爪先の丸い靴が、常々彼女に意地悪をする叔母さんに似ていて顔をしかめた。

「ちがうよ、ちがう。あのひとはこんなんだよ」

 青年の手をどけて、頭に角と口に牙を描き加えた。そろそろと再び青いペンが接近して、威嚇でもしているかのような口から炎を吐き出させた。

「うわあ、おっかない」

 けとけとと笑っていた少女の目の前で、ざざっと舞い立つ砂埃。

 何が起こったのだろう。

 どうやら青年が掌で地面を掃き清め、忌々しい叔母の絵だけ消し去ってしまったらしい。

 ベストやズボンが砂埃で白く汚れているのに、青年は小さく微笑んだままだった。

 

 ただの直感だが。この年若く見える金髪の旅人は、本物の人間を消してしまう時だって笑ったままなのだろう。

 

 少女はどんな顔をしたものやら戸惑った。棒切れを捨てて立ち上がるも、その場からすぐに動けない。

 見覚えのない青年から目を離すのは危険だ。

 ひょっとして。

 自分の保護者も、この絵と同じ末路をとうに辿っているのかも――。

 

「ちょっと! いつまで遊んでるんだい! 食器洗いを手伝うと言ってただろ!?」

 背後の安アパートよりしゃがれ声が聞こえて我に返った。

 青年は少女を見上げている。澄んだ翡翠の瞳が真っ直ぐ向けられる居心地の悪さに耐えかねて、もじもじと手を擦り合わせていたが、やにわ身を翻すと屋内へ飛び込んだ。

 二階へ続く階段を掛け上げると、ばたんとドアを閉めた。台所から顔を出した叔母は面食らった様子で目を丸めている。

「なんだ、そんな急いで来なくてもよかったのに」

「……おばさん」

「なんだい、なんだい。顔が真っ青だよ。具合が悪いならそう言っておくれ。……皿洗いはいいよ。あんたがもたもたしてたから、もう終わっちまいそうなんだ」

 相手が洗い場へ引っ込んだのを確かめてから、少女は取りつかれたような有様で窓際へ走った。留め具を外して窓を大きく開け放つ。ちょうど目下には、ついさっきまで自分があの青年と話していた道端が見える。

 青年の姿はなかった。

 代わりに、彼が去ったと思しき方角へ、延々と絵が続いていた。

 描かれているのは象の足、脚、肢。

 建物が落とす影の中で、象の足だけが悠然と行進しているのだった。