名も無き大樹

「ねえ、あんた。最後に一度抱きしめてくれないか。ほんの少し心細くなってしまったんだ」

 大樹の枝を揺らす風が声を奏でる。木々の言葉は内より生まれるのではなく、枝葉を通り過ぎる空気の流れを巧みに掴まえて吹き渡るのだ。

 旅人は目の前の樹皮にそっと掌を押し当ててから両手を滑らせて、一番太い幹へ腕を回す。頬を寄せた表面はざらついていたが、十分な雨水を蓄えた内部に体温を吸われて、ひんやりと心地いい。

 

 長く森をさすらった人間は、意識を持ったまま植物になってしまう事がある。

 根を下ろすさだめの地面に差し掛かると、前へ進むのを躊躇うようになる。立ち止まった足から木になっていくのだ。

 気が遠くなる年月を経て。彼らは本物の木になってゆく。人の意識を保てるのは精々百年が限度だが、中には数百年と自我を持ち続けるものもあった。

 こうして抱いている木は、もう自分の名前も思い出せない。故郷の方角も、家族の顔も。どうしてこの森へやって来て、なぜここで歩みを止めてしまったのかも。

 

「死ぬ事と、忘れる事はどう違う。死ぬ事と、覚めぬ眠りへ発つ事はどう違うんだ」

 震える問いかけは老人のようでもあり、悪夢に怯える子供のようでもあった。旅人は頬を寄せていた幹から顔を上げると、右手の人差し指でゆっくりと皮をなぞる。応答を一文字ずつ書き示していった。

『どれもそう変わりはありません。だから、あなたが安らかでいられる考えを選ぶといいですよ』

「――そうか。じゃあ、眠るように終わりたいな。眠りに落ちると考えれば、いつか目覚めがあるかもしれないと思えるだろう?」

 旅人は微笑んだきり答えなかった。木の人の声は明るさを取り戻したから、それでよかったのだ。

「じゃあ、また」

 まどろみに指を掛けた声が穏やかに聞こえる。旅人は樹皮に唇をつけると、声は出さずにそっと口を動かした。

 

『おやすみなさい』