世界の地図

 小高い丘から教会の鐘の音が響き渡る。今しがた祈りを終えて下りてきた旅人は、坂の終わりに腰を下ろしている青年をみつけた。

 使い古しのペルシャ絨毯を敷いて、そこに脚を揃えて座っている彼は、構えていた横笛を下ろして顔をきょろきょろとさせる。足音を立てて正面に回り込むと膝を下り、二度、軽く掌を打ち合わせた。

「ああ、そちらに」

 顔を動かしていた笛吹の青年は、常に一点の中空を見つめている。光を映さぬ代わりに、まっすぐ本質を射抜く眼光は黄金の色を宿して宝石のようだ。そうと伸ばされた左手へ応じるべく顔を近づけると、輪郭、鼻の高さ、眉間の幅を測るように柔く撫でられて、思わず旅人の唇から笑みが漏れた。

「あなたは旅人さん」

 当たりでしょう、と盲目の奏者は声を弾ませる。ぱちぱち、肯定の拍手で応じれば、得意げとはにかみが混じった微笑が返って来た。

「お祈りですか?」

 頬に手を添えられたまましっかり頷く。目の見えぬ青年と、声を発さぬ青年。互いのやり取りは淀みなく、時に言葉を介するよりも早く心を交わす事ができた。

 例えば、首肯をするまでの時間。触れ合っている指先の僅かな体温の上下。声は容易く繕えるが、体は嘘をつかないものである。

 

「旅人さん、零区にはもう行かれましたか。あそこは元々、隣り合う街と街、土地と土地とを隔てる境目として設けられた場所ですが……近頃、境の線がどんどん内側へ広がってきているそうです。隣の土地の面積が増えているのではなく、純粋に、境の線が太くなってきているんだ」

 旅人は身じろぎせず、考え込むように視線を伏せた。その僅かな所作も、緩む筋肉の動きで知れたのだろう。笛吹は継ぐ言葉を躊躇ったが、結局は語る事にした。

「境界の線なんて、実際は曖昧なものじゃないかと俺は思うんです。結局は、限られた人間が勝手に線引きしたものですから。しかも、この空想都市の境界線ときたら。境界を警備する人間の一存で、あちらが線の内だの、こちらが線の外だの。まったくあてにならないじゃないですか」

 落胆を吐いた後、ぼやくように盲者は問いかけた。

「いずれ、太った境界線そのものが土地にとって変わる、なんて未来がくるのでしょうかねえ。そうしたら、その境界を分ける線がまた引かれるのでしょうか。俺達はいつから、地図を描く事こそが、世の中を正しく理解する手段だと逸ってしまったのだろう」

 

 それきり何も語らなくなってしまった笛吹の手を頬から外すと、手首と掌の境に唇を寄せた。

『実物を見てわかる事、地図を観てわかる事があります。どちらかひとつだけでは不十分です。でも、全て完璧にしようとすると、人生が足らないんです』

 そこで、旅人は静かに目を閉じた。

『かつて境であった場所が土地になる。その土地をまた線引く。時に酷く無情に物事は常に変化します。でも仮に、空き地を見た人の中の一体どれほどが、かつて建っていた家、そこで営まれていた生活へ思いを馳せるでしょう?』

 漏れた溜息はどちらともなく。

『笛吹さん。僕達は、忘れる生き物です』

 

 人類史とは忘却へ抗うために編まれたものである――。

 とある名優が舞台の上で諳んじた台詞を最後に、笛吹は沈黙した。やがて旅人が手を放すと、膝に休めていた横笛を取り、夕暮れの音色を奏で始めた。