酒場の影達

 人に仕える我々は、真の意味で影なる存在にならなくてはならない。

 光源を受けて伸びる黒い影達は、文句のひとつも言わずに主の傍へ寄り添い、物音のひとつも立てずに控えている。

 世に素晴らしい哲学は多かれど、全てを実践する事はできない。

 ならば私は常に影であるようにと考えていよう――。

 

 読み返していた本を閉じる。掠れたピアノの協奏曲が蓄音機より奏でられる店内で、旅の執事はあくびを噛み殺した。

 壁の時計を見れば、良い子が眠る時間を少し過ぎたところ。食事も済み、デザート代わりの甘いカクテルをのんびりと傾けていたが、そろそろ席を立つ頃合いではないだろうか。会計をするため、バーカウンターの向こうでグラスを磨いている店主を呼ぼうとした時である。出入り口のドアにつけられたベルが、からんからんと鳴り渡った。

 それと同時に。

「――クヴァール先生! ご無沙汰しております。こんな所でお会いするなんて、偶然ですね!」

 ほろ酔い微睡んでいた酒場に朗々と響く声。自らを呼ばわる声にどぎまぎと振り向いた執事は、もはやうんざりするほど見飽きた少年の姿に肩を落とす。

 見るからに年端の行かぬ子供の風体であるから、傍を通った給仕が年齢を尋ねるも、胸を張って取り出した身分証に記載されている年齢は、どの国に赴いても十分飲酒や喫煙を許されるものである。上等な仕立てのスリーピースを纏っているが、スラックスの代わりにハーフパンツを、その下に滑らかな白いタイツを穿いている。すらりとした形の良い脚を強調するような井出達は、あの召使が良家に雇われたフットマンである事実を暗に物語っていた。

 店員と一悶着あった間にさっさと勘定を済ませておけば良かったものを。彼の童顔は昔からちっとも変わらないなどと懐古に浸ってしまったため、執事はすっかり席を立つ機を逸してしまった。あれよあれよと隣の空いた席に座り、頬杖を突いて無邪気に顔を覗き込んでくる段になって、ようやく体を仰け反らせて距離を置いた。

「先生の瞳は、相変わらずきらきらと澄んでいて美しいですねえ。マスカットの飴玉みたい。もしかして、さっきぼくの脚に見惚れていたんですか? 先生になら好きに触ってもらっても……え? そういう趣味はない? 残念だなあ」

 くりりとしたどんぐり眼をきょろきょろさせながら、他愛も無い雑談へ興じるようにとんでもない爆弾を落っことしていく。佇んでいる時は引き締まっていた太腿も、椅子に身を預けて投げ出し弛緩した途端、如何にも弾力を持って柔らかそうな質感へ化けるので、その筋の愛好家にはさぞ受けも良いのだろう。

 するするとタイツの上に自らの指を這わせ、ふっくらした唇が描くのはあくまで無邪気な笑顔だった。

「先生と最後にお会いしたのが随分と前に感じられて……いえ、実際ずっと昔ですよね。この一年、気が遠くなるような一年でした」

 たったの一年じゃないか、とは思ったが、もちろん言葉にも出さないし、筆談で訴える事もしなかった。勘定のため呼んだ店主がやって来たものの、若い召使が酒のオーダーを取りつけるのが早かった。急ぎで、と加えたものだから、店主は素直に水割りを作り始める。不運にも、他の店員も捕まらない。執事は諦めて、アルコールも入っていない内から口の滑らかな相手の話に耳を傾ける。

「先生も、期限つきの雇われだなんてやめて、昔みたいに一つの家に仕えられたらいいのに。ぼくが今お世話になっているお家はどうですか? 家柄も申し分ないですし、永く雇ってもらえますよ。先生みたいに有能な方は、きちんと評価をしてくれる場所で働かれるべきです。それで、ぼくにまた色々教えてください。ねえ、先生。以前に話してくれた影のお話、まだ覚えてるんだから」

 使用人とは主の影となるべきである。――その話をした時、君はどうにも目立ちたがりだから、この理屈は合わないかもしれないねと語りかけたのだが、そのくだりは覚えていないのか。

 覚えていないのだろう。天真爛漫な召使は常に、物事を都合の良い方向へ捉えている。行く先々に現れるのをやめてくれと言っても伝わらず、付き纏うのをやめてくれと言っても理解してもらえない。

 彼には、付き纏っているという自覚が無いのだ。あくまで、これは偶然の再会なのだからと言って引かぬ。遂にそこから運命という単語まで引っ張り出してくるのだから始末に負えない。

「ぼく、先生の事を一等尊敬しています」

 注がれる敬愛の眼差しに辟易しつつ、ウィスキーの水割りを持ってきたマスターへ執事も注文を重ねた。新しいカクテル、それともうひとつ。

 

『隣の彼のグラスが空いたら、同じものを途切れないように用意してください。代金は全て、私が持ちますので』

 

「わあ。先生、太っ腹ですねえ。再会を祝したお心遣い、痛み入ります……!」

 断りもなく言伝のメモを読んだ召使は、ふにゃりと嬉しそうに相好を崩した。笑顔で応じながら、新しいカシスのカクテルを傾ける。

 あまり酒に強くない後輩が調子に乗って、さっさと酔い潰れてくれるように願いながら。