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さよならお姫様/訳あり少女と執事

 執事を雇ったぞ、とおとうさまは言った。

 散らかし放題の部屋の中、鉄柵越しにおとうさまはわたしをみつめる。

 お前の新しい世話係だよ。沢山遊んでもらって、良い事と悪い事を教わるのだよ。もう少しの辛抱だ、ミシェル。立派なレディになったら、天国のお母様もきっと喜ぶ。

 

 細心の注意を払って開かれた扉の、僅かな隙間から体をねじ込んでやって来たのは、おひさま色の髪を持つ執事だった。

 背後で閉まる重々しい鉄扉の音にも臆さず、ずたずたのカーテンも、ぼろぼろの壁紙も。羽毛の飛び出したクッションがそこかしこに転がっていても、その人は特に取り乱した様子もない。

 透き通った翠色の瞳が、わたしを見る。

 褪せた銀色の髪を伸び放題にした、埃塗れの古いエプロンドレスを着たわたしを。

 わたしの目はあかい。

 うさぎみたいに。

 わたしの爪はながい。

 きつねみたいに。

 わたしの力はつよい。

 あくまみたいに。

 わたしの、わたしの、わたしの。

 わたしのなまえは、なんだっけ。

 床に座り込んだまま動かない、壊れたおもちゃのような子供に、執事は恭しく膝をついた。

『はじめまして、ミシェルさま。きょうから、あなたのともだちにさせていただく、しつじといいます』

 分厚い絵本のような本は全て白紙だった。そこに青いインクで文字が踊る。わたしは近くにあった真っ赤なクレヨンを握った。

『わたしは、みしぇる?』

『はい。あなたは、ミシェルさまです』

『しつじは、ひつじ?』

『いいえ。しつじは、しつじです』

『じゃあ、たべられ ないの?』

『たべても、おいしくないですよ』

 なんだ。ともだちって、てっきり変わったごはんの事かと思ったのに。

 唇を尖らせると、口の中を鋭い牙が突っついた。

 

『じゃあ、しつじは、なにを するの?』

『あなたに、もじや、けいさんをおしえるために。それと、むやみやたらに、ひとをたべてはいけないことを、おしえにきました』

『そんなの、いらない わ。わたし、ひとじゃ ないもの。ひとのせかいの、るーる、しっても しょうがない でしょう?』

『でも、ミシェルさまは、おんなのこです』

 おんなのこ。

 それって、絵本の世界でいつも、狼に丸呑みにされたり、男たちのナグサミモノになってるアレのことかしら。

 真面目に問いかけたつもりだったけれど、執事はころころと鈴を転がすみたいに笑った。曇った窓硝子のはめられた部屋は薄暗かったけど、少しだけ、陽の光が射したみたい。

『そんなめにあうこともありますが、それだけではないですよ。ミシェルさま、おんなのこは、みんな、おひめさまになれるんです』

 

 ふうん、お姫様。

 きれいな宝石で飾ったり、やわらかいドレスを着ている、お姫様。

 傍に置いていた絵本を拾い上げて、鋭い爪で傷付けないよう慎重にページを開く。

 本の題名は、サンドリヨン。午前零時の鐘に急かされて、ガラスの靴を置き忘れた女の子の話。そのおかげで、迎えに来て貰えた幸せ者の話。

 一番最後のページ、お城のバルコニーで王子様と幸せそうに笑うその子を執事に見せた。

『こういうのに、なれ るの?』

『なりたいとおもわれるのなら』

『しつじ は、おうじさま?』

『いえ、いえ。わたしは、しつじです。わたしより、ずっとすてきな、おうじさまが、よのなかにはたくさん、いらっしゃいますよ』

 ぱたんと筆談用の本を閉じて、新しい使用人はベストのポケットから目の粗い櫛を取り出した。わたしの後ろに回り込むと、随分とほったらかしにしていた髪を毛先から丁寧に梳き始める。

 

 歌がきこえた。うしろから、執事の居る方から。もつれが解けるのに合わせて、するすると僅かずつ輝きを取り戻していく長い髪。

 その変化が面白くて、気づけばわたしの口も歌い出していた。とっくの昔に忘れていたはずの子守歌を。

 画用紙を破いて、書き付けた文字を見せる。なんて距離の近い文通。

『ねえ、しつじ。わたしが おひめさま、なれるなら。しつじも、おうじになれるのじゃなくって?』

『そうですね。あなたが、のぞむなら』

『でも、よのなかに あなたよりかっこういい おうじさまがどれだけいるか、たしかめてからじゃないと いけない、わね』

『おっしゃるとおりですね』

『でもね、それでもね。あなたがいちばん ってなったら、あなた、わたしとけっこんしてくれる?』

『そんなことはないとおもいますが』

 途切れた歌の代わりに、緩やかで平和な笑い声が響いた。

『もしそうなったら、つつしんで、あなたのくすりゆびに、ゆびわをはめましょう』

 

 それから、私は執事から沢山教わった。綺麗な文字を書いて正気を装う術を。数字を使って、的確に力を作用させる計算を。

 私が、本当に居るべき森の場所を。

 お父様は白銀のお母様を見初めて、無理に無理を重ねさせて遂に死なせてしまった外道だけれど、その怨みを晴らした上で、もっと自分のためになる手段を既に知っている。

 自由になること。二度と、こんな場所には戻ってやらないこと。

 出ようと思えばいつでも壊せた薄っぺらい壁、脆い屋敷を飛び出した。飾る宝石は奔るのに鬱陶しくて、柔らかいドレスでは悪意から身を守れなくて、だから私には、結局どれも必要のないものだった。

 背後で見送る執事の気配が遠のいていく。一度も振り返らなかった。今宵は満月、足首まで届く白銀の毛並みを踊らせて、人家の屋根を跳んで伝いながら、高く低く歌を歌った。

 私の王子様、私の魔法使い。

 もう二度と会えなくたってちっとも構わない。でも、こんな月の夜に遠吠えが聞こえたなら、きっと私を思い出して。