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ころしあい主従/吸血鬼と執事

 こうなる事は最初から分かっていたはずだ。

 雇い入れた時に相手へは俺が吸血鬼であるのは告げていたし、それでもお役に立ちますと言ってのけたのは誰でもない執事本人だったのだから。

 

 今夜の月は、蜂蜜を詰めた瓶のような色だ。透明な月影、玲瓏な満月。屋敷に息づくのはたった二つの生き物だけ。後の人間はみんな喰ってしまった。

 俺達はけして浪漫世界の住人ではない。どちらかと言えば、カメラに向かって血飛沫を飛ばしながら尚生き血を浴びる、スプラッターの獣である。

 白いシャツなんて着なけりゃよかった。

 ぼとぼとと口の端から垂れた血液が、シャツの襟を汚して胸元を赤く染めている。普段はきちんと櫛を通して整えている髪も、品のいいように装っている顔も、全部が全部台無しだ。だってこんな月の夜、浴びる程呑まなきゃやってられない。目につく人間全ての体温へ直に手を這わせたくて堪らない。

 血の巡る内臓を掻き分けて探ったら、お前達の体はさぞや温かいのだろう。

 半ば乾きかけている血染めの掌が、組み敷いた執事の頬を包む。悲鳴すらあげない、翡翠色の瞳は爛《らん》と月光を映して猫のように輝いていた。まばたきせず、見上げる双眸に拒絶はない。

 そんな当然に与えられる受容が居た堪れなくて、ばかだなあ、と俺は泣きそうな声で言った。

 

「お前は今から食い殺されるのに。抵抗のまね事でもしたらどうなんだ。こんな所で死ぬのは嫌だろう」

 少し顔を傾けて、頬に添える手に唇を寄せた執事は、言葉を発する代わりに唇の動きで意思を伝えてくる。

『殺しにきている相手を止めるには、自分も殺す覚悟で挑まなくては叶いません。私は、誰も殺したくないのです』

「なにそれ。その気になれば、怪物《おれ》だって殺せるって?」

『ええ。まったく造作も無く。飢餓に囚われた獣を狩り出す術など、腐るほどございます。獲物が手に入った瞬間、最初の一口目へありつく間際。何かを食べる時、生き物はどうしても無防備になる。吸血鬼は、生きた獲物から血を啜るのがセオリーです。ならば、喰われながらでも貴方を殺す事ができる』

 

 殺すだの殺されるだのの話をしているのに、こいつはどうしてこんな楽しそうなのだろうか。

 一瞬でもその気になっていたらしい執事は、間も無く目に見えて気落ちすると目を伏せた。

『しかし、私は誰も殺しません。なんて残念、なんと無念。正に己を取って喰おうとする外敵が目の前に居ようとも、この手が汚れるのは嫌なのです』

 

 だから、喰いたいのなら好きにしろと言うのか。

 わからない、わからない。さっぱりわからない。

 殺したくないけど、殺されたくないから仕方なく手に掛ける、というならわかる。

 しかし、殺したくないから殺されるだなんて。生き物としての道理、生存本能に反している。そもそもこの期に及んで手が汚れる事を気にしている場合なのか。

 ひたり。不意に頬へ添えられた執事の手にぞっとした。上体だけを起こし顔を近づけてくる、こいつは笑っている。まんじりともしない翠の瞳に映る、自分の怯えが見えるほど近くで、俺は初めてこの使用人の声を聞いた。

 

「喰い殺してくれるのでしょう? 早くそうして下さい。こうも悠長に構えている間に、貴方はもう四回も僕に殺されている。最初に背後から駆け寄って来た時、肩へ手を伸ばした瞬間に振り向きざまナイフで刺されて殺されている。僕を床へ押し倒そうと向き合った瞬間、目玉を抉られて殺されている。悠長に語って躊躇っている間、僕の手を拘束していなかったばかりに首を絞められて殺されている。さっき僕が貴方の手首に口を近づけた時、動脈を噛み切られて殺されている。今正に、情緒が不安定な貴方を唆して自死させようとしている僕に、貴方は殺されかけている」

 唇が触れ合いそうな距離で呪いを注がれる。気管支から冷えていく。呼吸の仕方を思い出せずにいる。指先が痺れていく。

 互いの位置は入れ替わっていた。へたりこむ俺に死神のような影が覆い被さる。

 廊下の窓から見える蜜の月光と同じ粘度で、執事の口許に笑みが滴る。崩した脚は行き場を無くし、彼はそれを跨いで腹と腰を重ねるように圧し掛かってきた。くすくす軽く笑う声に混じって囁かれた一言があまりに慈悲に富んでいたので、俺はそれを睦言と錯覚した。

「意気地なしですね」

 首筋へ愛しげに這う白い指が、愛撫のためのそれでないなんてとっくにわかっている。こいつの本性を知ってしまった今となっては。

 こんな綺麗な月の夜に。俺は自分が雇った執事に、六回も殺されている。