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ココアの香りで/夢魔と執事

 尖塔に降り立って翼を休めると、一際近くに見える真っ赤な満月を振り返った。人間はコレを不吉の象徴と騒ぎ立てるが、単に月の位置によって赤い光が届きやすくなっているだけなのだ。おまけに赤くなるのは月ばかりでなく、地平線に近くある星もそうなのだが。

 しかし、実際に月の位置によって引力が与える潮の影響や、色がヒトの心理に及ぼす影響、口承が落とす翳りなどを考慮すれば、単に色が変わるだけだとも一概に言えない。

 月自体は何もしないが、それを見る側はあれこれと惑わされるものだろう。

 履き込んで飴色に輝くブーツの爪先を軽く立てて、踵も浮かせれば高所からの自由落下が始まる。折り畳んだ翼の代わりに、煽られる黒いマントが悪魔めいたシルエットを投げかけながら煉瓦作りの古びた学び舎の壁を滑って行った。

 

 ちょうど門扉の真ん前に着地する。両開きの戸は片方だけ開いたまま固定されており、点されたランプの黄色い光を夜闇へ淡く放っていた。

 小さな町一個に相当する敷地内の全てが、様々な学問を究める探求施設として機能している。通常、境を越えるためにはガードマンの厳重なチェックを受けなければならないが、一度中へ入ってしまえば警戒は格段に緩くなる。敷地の中に居る者は全て、門番が選りすぐって迎えた安全な人物なのだと安心しきっているのだろう。

 新しいガードマンを雇うなら、今度は翼のある奴も入れた方がいい。空からの堂々たる侵入者は乱れた短い黒髪を指先で軽く後ろへ撫でつけてから、軽い足取りで歩き出す。神秘学と刻まれた石碑を横目に壮麗な建物へ這入り込んだ。

 

 勝手知ったるなんとやら。ここに踏み込むのは初めてではない、今夜で三度目を数えている。

 宵時ともなれば学生は各々寮に帰っているらしく、広々とした廊下では誰とも擦れ違わず、明かりの落ちた研究室のほとんどが施錠されて黙りこくっていた。

 目指したのは奥まった場所にある巨大な洞、聖堂と名付けられたそこである。

 都合よく堂内へ至る扉も半端に開かれており、目当ての人物はいるだろうかと招かれざる魔物は生じた隙間よりこっそりと内を盗み見た。

 視線の先、最奥に設えられた華美な祭壇の近くに人影がある。歓喜に輝いた赤い瞳はすぐに、その人物の傍らにみつけた少年を睨みつけた。

 長椅子の列はおよそ十を越えており、この距離を挟んでは到底会話は聞き取れない。妙な術を使って両人に気取られても面倒である。そのため歯噛みしつつ成り行きを見守る他ないのだが、これがもどかしい上になんとも面白くない。

 

 魔物がわざわざ会いに来たのは、神秘学の教鞭を執る教師である。先達や研究対象には敬意を忘れない人柄の相手が、あんな風に祭壇へ半ば腰かけるようにして体を預けているのは不自然だ。

 向き合う位置で寄り添う少年は制服のジャケットを今正に羽織り直す所で、遅れてだらしなく前を開けていたシャツのボタンを留め始めている。彼の指先が今度は、教師の柔い金髪へ伸びた。二、三、何事かを言い含めるように顔を近づけて両者は会話を済ませてから、生徒の方は鞄を雑に持って出入り口であるこちらへやって来る。

 暗がりへ紛れるにはうってつけの黒尽くめであるから、戸の影に滑り込んで息を殺した。まさか第三者が居るとは夢にも思わない若者は欠伸混じりに鼻歌を奏でて、呑気に立ち去って行った。鼻先を掠めた、甘ったるいムスクの匂いが気に食わない。

 

 さっきまでの浮かれた気分はどこへやら。入れ違いで今度は自分が聖堂へ至ると、憔悴しきった様子で自らの荷物を纏め始めていた教師へ早足に近づいた。天井の高い屋内へ響く靴音に逸早く気づいて、相手ははっと顔を上げる。驚きも束の間、それが誰であるか分かると、ふにゃりと柔らかに相好を崩して見せた。

「よう、センセ。遅くまで生徒指導かい?」

 つまらない苛立ちから口を突いて出る皮肉に、つい恥ずかしくなる。だが相手は気にした様子もなく取り出したノートに応答を書いた。

『あの子は、今お仕えしている主のご子息なのです』

「へえ。教師と執事の二足の草鞋《わらじ》とは。そんなに金に困ってるなら、オレが工面してやろうか」

『お金が欲しい訳では無く、これも主人の命令でして』

「……息子の面倒を四六時中見て欲しいから、教師としてここに派遣されたってコト?」

『元々、臨時で教壇へ立つ事もあったのです』

「あのドラ息子、お前が傍に居ないと暴れるとか? もう十代も後半だろ、マザコンより寒いよ、それ」

 

 人間ってのは一体どこまでわがままになれるのか。どうせ家に帰ってもお世話係をやらされているのだろう。吐き捨ててみるも、教師兼執事はにこにこと笑うばかりだった。

 思えば初めて彼を見つけた時もそうだ。大半の建物の明かりが落ちて、その中ですやすや眠っている奴らをよそに、相手は聖堂で熱心に書物を読み解いていた。

 信仰心など欠片もないから俗に言われる、魔のモノは清められた場には近づけないという事もなかった。信心があって初めて神は権能を振るう。人間が天罰と騒ぎ立てる現象は夢魔にとってただの雷でしかなく、あるいは間の悪い一過性の状況にすぎなかった。

 何かを真摯に信じ続けた記憶などなかったから、自分の余命以外にあそこまで熱心になる人間の、あの宝石のように輝く翡翠の瞳に魅入られた。

「……研究するならオレにすりゃいいのに、センセもさぁ。夢魔だって立派な神秘だろ? カミサマの側じゃないけど」

 この研究の徒が見つめる先に自分がいられないのは、寂しいような残念なような。つまらないと言った方が正しいか。

 そう拗ねると相手は決まって困ったように首を傾げてから、とっておきの上策を思いついたとばかりに手を合わせてこちらに近づく。

『夢魔くん。もしお時間があったら、私の研究室へ寄りませんか? いつものココアをご馳走しますよ』

 別にココアが好きな訳ではないのだが――初めて彼に接触した時、やっぱり振る舞われたのはその飲み物で、脳味噌が痺れるような甘さが記憶に焼き付いて離れなかっただけである。

 牛乳にミルクチョコレートを溶かした飲料が、本気で魔物の機嫌を上向かせるに足り得ると信じ切っているのも面白かった。相手のスケジュールは過密で、明日の授業の準備もあるだろうし、そもそも早く帰って雇われた家に奉公もせねばならぬだろうに。僅かな時間の隙間を更に切り分けて、自分に付き合ってくれるのは単純に嬉しかった。黙って頷いてみせると、色好い返事を受け取ったと言わんばかりに踵を返して、いそいそと鞄へ荷物を詰め込んでいく。

 

 しかし、一瞬漂ったムスクの残り香が気に入らない。

 

『では行きましょうか』

 待たせまいとしたのか、雑多に詰め込まれたあまり、あちこちから資料や紙束が飛び出す鞄を隠すように後ろ手を組んだ教師の顔をぼうと見る。

 暫しあらゆる姦計を巡らせてから、夢魔は不意ににやりと口元を緩めると、重たそうな荷物を攫って先に歩き出した。

「イイコト思いついた」

 善は急げだが、この後ゆっくりとホットチョコにありつく一時は大事にしたい。虚を突かれたような相手の驚きも楽しく、次に飛び出た頓珍漢な問いへ更に笑いが込み上げる羽目になる。

『ココアにマシュマロを浮かべよう、という話ですか?』

「ははっ、違ぇし! どんだけセンセはココア好きなんだよ、もー」

 ああ、でもいいな、それ。ひとしきり笑い倒した後に付け加えると、親鳥《じぶん》の後をついてくる雛鳥《あいて》の足取りが分かりやすく跳ねた。まるで子供みたいだ。

 

 誰かのものや、誰のものでもないのを掠め取るのは夢魔《オレ》の十八番だった。ありもしない夢を見せて、覚めた現実に愚かな人間を置き去りにするのが至上の愉悦。遺伝子へ刻まれた変え難い本能である。

 こんなのちっとも愛情を抱く相手を幸せにできやしないじゃないかと、殊勝に悩んだ事もあったが、そんなのまったく見当違いの憂慮だった。それがどれだけ嬉しく、愉快であった事か。

 

 

 あれから数日、今夜の満月は黄金色。この教師と同じ髪の色をして輝いている。夢魔は水面に浮かぶマシュマロをスプーンで突っついて沈めながら、そういえばと何食わぬ顔で口を開く。

「この間まで仕えてた家から暇が出たって聞いたんだが。あの話はホントかい? センセ」

 どこでその話を、と驚きに瞠られた翠の目は今、自分にだけ向けられている。いい気分だ。

『そうなんです。どうやらご子息の機嫌を損ねるような事でもしてしまったのか。旦那様から契約期間の満了を待たずに、残りの額を持たされた上でお暇を頂きまして』

「どうせ他へ夢中になる女かなんかでも出来たんだろ。センセの落ち度じゃないさ」

 ここへ来る前に湯を浴びて入念に落としたムスクの匂いなどは、排水溝へ吸い込まれた瞬間に忘れている。隣に座る教師からは自分と同じ銘柄の石鹸の香りがした。同居している訳でもないのにどうしてと、聡い相手がいつ気づいてもおかしくないのだが、踏み込んで来る気配は今の所ない。

『しかし、次に雇ってくれる方を早々に探さないと』

 別に教師のままいればいいじゃないかと口を挟むも、そういう訳にはいかぬのだという。執事の家に産まれ、今日までそのように生きてきたのだから、一時でもその肩書が外れると落ち着かないのだと。

 それは難儀な話だ。表向きはしおらしく同情を寄せてみせるが、内心はようやく巡って来たツキに踊り出したい気分だった。もう何度も脳内で、呪文の如く繰り返してきた台詞をようやく音にできる。

 

「じゃあ、オレの執事になってよ。ちゃんと給料も出すからさ」

 決死の告白ほど軽く日常めいて聞こえるから恨めしい。おまけに相手は、どうして突然と言わんばかりにきょとんとしている。引くに引けず、これ以上に言い募れもせずどうしようもない。

 ぎゅうと握りしめたマグカップの、ココアの水面が揺らぐほど。浮きつ沈みつを繰り返していたマシュマロがすっかり溶け行く様を見届けていると、そっと視界の隅に映り込む紙の切れ端に、小さく文字が躍っていた。

 

『ひょっとして、私の作るココアがそれほどお気に召して頂けましたか?』

 

 何をばかな事を。そんな理由で人間を一人雇い入れる訳がない。もっと重大で切実で、人間らしくどうしようもない腫れぼったい理由があるのだと言うのに顔を上げた先で。教師は酷く照れた様子で笑っていた、ので。

 ああ、まあ。そういう事でも、いいのかもしれない。

「そうだよ。――そんだけ好きってことだよ」

 捨て鉢で言い置いた意味の深さを結局相手は分かっていないようだったが、このくらいの距離が。平和な飲み物を挟んで肩を並べられる近さが自分にとっての初恋なのだろうと、夢魔は得心したのだった。