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モニカの運命論/薄幸の少女

 今日に至るまで何一つ不自由のない生活を送ってきた自負があった。そんな少女、モニカに余人は思わず、なぜと尋ねずにはいられないだろう。

 貴女はなぜそう思われるのですか? 義理の父からは理由もなく辛く当たられ、母と頼る人もなく、大きな屋敷の中には欺瞞と虚しさだけが渦巻くばかりだというのに。

 十歳を迎えた誕生日に、どんな仕打ちを受けたのかお忘れなのですか? 貴女がほんとうの友達として扱っていた野兎は、酒に酔った義父のきまぐれで殺されてしまったではないですか。

 そう言い募られても、やはりモニカは変わらず微笑んで答えるだろう。ありがとう、私の事をよく見てくださって。でも本来、私はとっくに死んでいてもおかしくはない人間なのだから。そう思えば、生きているだけで無上の幸福なのです。

 

 

 元々、彼女はこの街でも有数の資産家として知られた領主、その息女として生を受けた。

 善人として広く名の知られた名士は、しかして生来体が弱く、彼女が生まれて間もなくこの世を去る。嫁いできた母も、今まで蝶よ花よと愛でられてきた令嬢であったから、無論女手一つで子を育て、家を切り盛りする手腕などありはしない。

 結果として彼女は再婚した。当時、野心家として知られた名うての商売家の男と。

 そこから続く顛末は、もしも貴方が全てを俯瞰する神の視座を持ち得ていたら、見事と言う他ない転落ぶりであっただろう。

 商才のあった男は婿入りとして敷居を跨いだ家の富を、倍、そのまた倍と増やしていった。尋常ではない黄金律。つまり、それは汚職と非道によって巻き上げられた金銭にすぎない。

 元々、高潔であった妻は昼夜問わず屋敷へ招かれる下賤な人間の接待と、石と共に屋敷の窓へ投じられる誹謗中傷の数々に疲弊、流行り病を患って帰らぬ人となった。屋敷に昔から仕えてくれていた使用人達も次々と暇を請い、気づけばモニカがこの屋敷で一番若いにも関わらず、一番古い人間になっていたのだ。

 今日も騒がしい夜会が始まる。屋敷は夜に向けておびただしい虚飾を纏い、淫蕩をほしいままにする乱交の場へと変わるのだった。

 おぼろげながらに残る記憶の中ではけしてこんな場所ではなかった、と暮れなずむ空を背景に、モニカは屋敷を裏庭から眺める。格式高く、誰もが尊敬し、前を通る時は自然と頭を垂れるような気品があった。今ではどうだ。姿かたちは同じなれど、粗末に扱われ果てた家は、まるで黄ばんだ骨格標本のように哀れじゃないか。

 自分も少女から女へと歳が移ろったら、母のような事をさせられるのだろうか。

 唯一、モニカが表情を翳らせるのは決まって将来を考える時であった。同年代の少女が行く学校にも満足に通わせて貰っていないから、他の子供がどんな希望を抱いて未来を語るのかは知らない。でも、たぶん大人になった自分を思い描くというのは、本来もっと楽しいもののはずだ。父が遺し、母が愛した書斎に時間を見つけてはこっそりと出入りし、学んだ本の中ではいつもそうだった。明日は明るい日。素晴らしい喜びと共にあるものであると、どの御伽噺も語っている。

 

 

 毒々しい明りが屋敷の窓に灯る頃。いまだ居場所のない少女はふらりと歩き出し、庭から外へ通じる裏門へと歩き出した。ここで呆けているより、本屋さんへ行こう。古書を扱うその店主は亡父の顔なじみで、生家がこんな有様になったモニカを憐れんで置いてくれる。そこで本を読んで、お爺さんと話をしよう。

 きい、と蔦のはびこった門扉に手をかけると、開いたその先。まるで自分を待ち受けていたかのように二人の男性が立っていたのに驚いた。

 黒い三つ揃えに袖を通した執事の方が、一歩前へ進み出て胸に片手を当てる。所作のひとつひとつが洗練されていて都会の紳士を思わせた。そっと頭を下げると金色の柔らかな髪が陽光に煌めいて、モニカは暫く声も出せなかった。伏せられた翡翠の眼が放つ澄んだ色。それに、口元へ浮かんだ笑みが息をするのも忘れるほど整っていたせいで。簡単な挨拶を済ませた執事は懐から一冊の手帳を取り出し、このような話を書きつけた。

『はじめまして。突然のご無礼をお許しください、お嬢さん。我々は一晩の宿を探している者です』

 咄嗟に、この従者は耳が不自由なのだと考えたので、少女も筆談をしようと書く物を探したが彼はその動作を制した。形良い唇の前で掌を幾度か開閉し、そのまま話して欲しいと頼んできたのだ。

「あ……その。旅の御方、でしょうか。このような格好で申し訳ございません。私はこの家の娘です」

 摘まんだスカートの裾が着古したそれであるのに気づき、ほんの少し頬に熱が集まるも、キユウと名乗った執事は緩やかに首を横に振った。

『人は纏った洋服によって価値が変わる事はありませんよ。どうかお気になさらないで。それで、この辺りに宿はありますでしょうか。何分、不慣れなものですから』

「下の街に二件ほど。けれど今からおいでになられたら、日が暮れてしまいます。人の行き来が活発な土地柄ですから、もしや部屋を取る事ができないかもしれませんわ……」

『それは困りました。我が主、名高きドラコ伯爵によもや野宿をして頂く訳には参りませんし』

 振り返る執事の視線の先、そういえばもう一人男が居たのだと何気なく目で追い――思考が、止まった。

 佇む背の高い影。あれは、何だろう。

 それが偽りようのない感想。

 後ろに緩く撫でつけられた艶やかな濡れ羽色の髪、白い陶磁器のような滑らかな肌。双眸に嵌め込まれた瞳は黄金もかくやに爛々と煌めきながら、その奥底に言い知れぬ憂いを湛えている。涼やかな切れ長の目元を縁取る睫毛は、瞬きの度に音が聞こえようかというほど長く、そこから自然と高く通った鼻筋へと見る者を惑わしていった。

 引き結ばれた唇が動くさまを、固唾を呑んで見守ってしまう。やがて砂糖菓子のような甘い低音がほろりと零れると、内容はどうあれ耳がじんと熱を帯びる始末だった。

「野宿なんぞは言語道断だ。お前は俺を屋根のない土の上で寝かせるつもりだっていうのか?」

『滅相もございません。されど宿を取れない以上、我々には縁故のある方もいない土地ゆえに』

「縁故ならできただろう。おい、そこの娘。俺達に屋根を貸せ。一等室を望む訳ではない。何なら軒だけでも結構、この身が野外に置かれるという不始末さえ回避できればいいんだ」

 こちらに話しかけられているとわかっても、モニカはすぐに返事ができなかった。声、とは、どのように出すのだったか。まずもってそこから意識を繋がなければいけないほどの動揺。

 そんな内心を知ってか知らずか。仕立てのいいダークスーツを纏った貴族はひらひらと掌を振って見せる。それでも反応が乏しかったため、心底解せぬといった様子でキユウを振り返った。

「なんだ。立ったまま眠ってるのか、こいつは。最近の若いのはこれだから」

『恐らくはドラコ伯爵の気にあてられてしまったのかと。それと今現在、貴方様のご容姿も相応に若々しくいらっしゃいますから、あまり説得力がありません』

 

「――ドラコ伯爵と言いましたかな、そこの方」

 

 

 背後から聞こえた胴間声に、びくりと少女が我に返った。腕にしなだれかかる美女を侍らせて、今まさにこの屋敷の主がやってくるところだった。ほとんど空になった盃を片手に、襟元をだらしなく寛げた大男。見るからに屈強そうな筋肉は着衣の上からでもわかるものの、それは空気で膨らませただけの風船のようにさえ見えた。力技を行使するためではなく、威圧感を演出するためだけの飾り。

 名を呼ばれたドラコ氏ではなく、頭を下げたのはキユウであった。流れるような所作で一礼をすると、その口元に温和な笑みを浮かべた。

『お騒がせしてしまい申し訳ございません。こちらのお屋敷の主でいらっしゃいますか?』

「その通り。しかしこれはまた珍客よ。悪魔《ドラコ》の名を持つ伯爵に、声を出さずに鳴く駒鳥とは。そこの執事、本当は喋れるんだろう? 筆談なんぞ回りくどい事をせんで、口を利いてみたらどうなんだ」

 伸びてきた手が嘲るように手帳を奪い取る。瑞々しい双眸をまたたいた従者は、ゆるゆると微笑むと唇の動きだけで、お戯れを、と呟いた。しっとり柔い唇の動きは得も言われず蠱惑的で、中性的な容姿もあってか焚きつけた張本人たる館の主人すらも生唾を呑んだ。

 沈黙を破ったのは成り行きを冷めた目で見守っていたドラコである。ぼんやり呆けた男の手から手帳を掠め取ると、執事の方へ放ってから気だるげに唇を歪ませた。

「ウチの使用人へ難癖をつけるのはよして貰おうか。主人は主人同士で話をするのが筋ってもんだろう。……あんたは俺に興味がある。そうだろ?」

 今度目を奪われたのは、領主の腕に手を絡めていた娼婦然とした女性だった。媚びや打算を抜きにして、単純に美しいものへ目を奪われる本能。燦然と煌めく宝石を前にしたように黒衣の伯爵を見詰めている。

 それに気づいた男はぞんざいに女を引きはがすと、乱暴な身振りで邸内へ戻るよう追い払ってしまった。夢から覚めてスカートの裾を翻し、慌てて逃げていく姿を忌々しそうに見送る義父に、モニカはあの娼婦をこの土地で見る機会は二度とない事を直感した。

 威厳を取り戻すべく巨躯を益々膨らまそうと肩を怒らせた男は、この成り行きにも一切無関心を貫いていた伯爵に顔を近づける。

「本来なら、侮辱してきた相手を我が家へ招く道理など無いのですがな」

「礼を失していたなら詫びよう、だがそちらはあんな些事で怒る器でもあるまい。ドラコの名に聞き覚えがあるのなら、俺の利用価値の算段もついているだろう? ここへ立ち寄ったのは偶然だ。今日を逃したら二度目はないぞ」

 伯爵は貴族というよりも、損得勘定を弁えた商人を思わす笑みを浮かべて、領主の足元を見た。

 ――ドラコ伯爵といえば、この地域において広く名が知られた人物だった。黒魔術、神秘奥義、果ては異次元を渡り歩く不老不死とも伝えられており、半ば生ける伝承と化している。しかしてその姿をその目で確かめた者はなく、ただ人並み外れた美貌と、常人ならざる威圧のみが実しやかに囁かれるのみだった。

 その名を騙る者も多いが、成る程、このドラコ伯爵はいくつかの特徴に合致している。なにより、もし偽者であったとて、宴席でつるし上げれば良い道化にもなる。暫し気を落ち着けるように黙り込んでいた領主は、挑むようにドラコへ笑い掛けた。わざとらしく揃った白い歯を覗かせた、獰猛な笑みを。

「宜しい。では、本日の宴の賓客として貴殿をお迎えしましょう。もし真実、ドラコ伯爵その人であるのなら、どうか好きなだけご滞在頂きたい。色々と興味深いお話を伺いたいですしな」

「承知した、快くお招きにあずかろう。――お前も来るだろう、キユウ」

 主が出向く場所に従者が随伴するのは当然だ。しかし、その常識に反して執事はしずしずと首を横に振った。

 それまで沈着冷静を貫いていた伯爵の顔が拍子抜けしたように驚きへ染まるが、キユウはさらさらと淀みなく文字を書きつけた。

『伯爵が探しておられた魔導書が、こちらの街の古書店にあるという情報を掴んでおりますので。私はそちらを探しに参ります。パーティーには然るべき刻限へ参じますので、どうかご容赦頂けますか?』

「……お前。まあ、そういう事ならいいけどな。くれぐれも上手くやれよ」

「おや。そちらの執事はご一緒されないのですか? それは残念だ。酒に酔わせてしまえば、熱っぽく囀ってくれるものかと期待したのだが」

 品のない嘲笑と共に向けられる視線。領主が金髪の執事を見る目は、娼婦に向けたのと同じものだった。義父の横暴に口を出す勇気はなく、益々縮こまる憐れなモニカの手前、執事は憤懣を抑えて静観を決める。最早なにを言っても無駄なのだろうと悟った伯爵もまた目を細めるだけに留め、邸内へ促す酒臭い声に応じて歩き始めた。

 

 

 残されたのはモニカと、一時の暇を乞うた執事である。すっかり彼らの姿が見えなくなったのを見計らって、少女は慌てて地面に手を突いた。どうぞ度重なる父の非礼をお許しください、お酒が入ると決まって気が大きくなって――そんな彼女にキユウは膝を折り、細い肩を支えて立たせてやるとワンピースについた砂埃を払いながら笑った。

『いいえ、気にしておりません。旅をしていると実に様々な方に出会うものですから。それに、あの方のなさった事を貴女が謝る道理もありませんよ、お嬢さん』

 それはさて置いて、と依然寛容な態度を崩さぬまま、キユウは奇妙な事を問いかけた。

『このお屋敷に、貴女のご家族はいらっしゃいますか? モニカさんと血の繋がった方、あるいは、家族同然に思われている方など』

 ひとまず相手の不興を買わなかった事に安堵した。それだけでなく、こんな自分の服の汚れを気にしてくれるだなんて、なんて慈悲深いひとなのだろうと感激していたものだから、少女はさして深く考えずに首を横に振る。名乗った覚えのない名前が手帳の紙面に躍ろうと、違和のかけらもなかった。

「いいえ。実父は私が生まれる前に……母も数年前にこの世を去っております。その時代から面倒を見てくれた者達は、みんな暇に出しました。ですから……」

『そうですか、有難うございます。それで、ご用事のついでで構いませんから、宜しければこの街を案内して頂けますか? 察するに、いずこかへおいでになろうとしていたのでしょう』

 自然と手を取られそのまま引かれると、今まで若い異性と接した経験に乏しかったため、またも頬が赤らんだ。さっきのドラコ伯爵に対して感じた畏怖のようなものではない。もっと繊細で、温かな胸の高鳴りだった。

「はい……街の、古本屋さんに。実父と縁のあった方で……とても、お優しい紳士なのです」

『それは奇遇でした。私も古書を扱う店に用事があります。貴女は読書がお好きなのですね。本は人の生を豊かにしてくれるものです』

 ふわりと吹き渡った風が門扉を押し開く。夢のような心地で誘われるまま、モニカはあれほど気にかかっていた屋敷を一度も振り返る事なく、街へと出た。

 

 

 そこから先の記憶は、彼女が老いて亡くなるまでの間も、変わらぬ輝きをもって在り続ける。大切な大切な思い出となった。

 本当に些細で、特筆すべきところのない。そんな平穏を誰かと分かち合うのは何年ぶりの事であったろう。

 本屋の店主は、いつも一人でやってくる少女が年若い青年を伴っているのを見て驚いたものの、やがて両者に親し気な眼差しを向けてくれた。売り物であるから、いつもの通り粗末にさえしなければ自由に見て行ってくれて構わないと。

 読書を肯定したキユウもまた、大変な読書家であるようだった。自らの用事である魔導書を探す傍ら、訳されたものではなく、異国の原語のまま書かれた書物をも、いくつか取り出してはどんな筋書であるかを丁寧に語る。それは情景がありありと浮かぶほど鮮やかで、躍動に満ちていた。

 本を読むより、誰かの話を聞く方が楽しいだなんて。そんな当たり前を、モニカはついぞ忘れていた。客の出入りも少ない時間帯であったから、店主の厚意で勧められた椅子を分け合って本を読み耽る。ふと手を止めて、互いに他愛のない話をする。

 幸福な、時間だった。

 また次も、こんな一時を彼と過ごせたらいいと思うと初めて、未来というものに希望を持てた。

 夢の終わりは始まった時と同じく唐突である。ぱたんと詩集を閉じた執事はゆるりとモニカに手を伸べて促した。

『そろそろ夜も更けて参りましたね。さあ、帰りましょう』

 彼はなにか持ってゆきたい本はあるか尋ねる。少女はお金がないからと一度は首を横に振ったものの、重ねて問われるとさっき読み聞かせてくれた民話集を挙げた。彼は事もなくその一冊を書架から抜き取ると、自ら携えた魔導書と一緒に会計を済ませ、彼女に渡したのだ。

『本との出会いは大切にするべきです。人と人との出会いと同じように』

 目を白黒とさせながら受け取るも、まるで強請ってしまったかのようで恥ずかしく、それ以上に嬉しかった。有難うございます、今日は本当に、なんだか幸せな夢を見ているかのようで――。本屋を辞して屋敷へ向かう道すがら、そう上の空で語るモニカは、やがて坂の向こうに見えてきた屋敷に目を凝らした。

 赤い。

 あれは宴の明りではないだろう。それよりも強く、全てを燃やし尽くしてしまおうという意図に満ちていた。

 強烈な悪寒が、背を駆け上がった。買い与えられた本を抱きしめるようにして、気づけば駆けだしている。息を切らして辿り着いた坂の上。ほんの二時間前までいつものようにあったその屋敷は、赤々とした業火に包まれて身悶えていた。

 ああ。これも、夢なのだろうか。

 魅入られたように歩き出そうとするのを、手を引かれて制される。ゆるゆると見上げた先、キユウは一片の動揺もないまま火事を眺めていた。髪の隙間から覗く双眸は、まるで昆虫のそれのように無機質である。

『ああ、貴女は運がよかった。この火事では、誰も助からないでしょう』

「え……あの、キユウ様、それは……」

『この屋敷の主人は、あらゆる神秘や黒魔術、秘儀に傾倒していた。貴女はご存知でなかったかもしれませんが、その趣味のために、数多もの貴重な生物、幻想種が犠牲になっていたのですよ。やがて、さすがに看過できぬとした国王直属の管理機関が、我々を使いに出した。生きているものがあるなら保護を。それ以外は跡形もなく灰燼へ帰するようにと』

「……では貴方がたは最初から、我が家に火を放つつもりで……ここへおいでになったのですか?」

『はい』

「義父の失敬な振る舞いに腹を立てたからとか、そういったものではなくて……」

『例えいかなる厚遇を受けたとしても、結果は変わらなかったと思います』

 そうか。その証拠に、きっとこの惨状を生み出したのは、歓待を受けただろうドラコ伯爵なのだ。思い至った途端、ゆらめく炎の向こうから平然と当の伯爵が姿を見せた。肩に乗った火の粉を何事もないように払いつつ、つい先刻別れたのと同じ身だしなみでこちらへ合流する。

「帰ったか。こちらは首尾通りだ。目につくモノは全部焼いておいた。跡形も残らんだろうな」

『お疲れ様でございました、アデル様。もう変装を解いても宜しいのでは』

「簡単に言ってくれるな、お前は。まだ生き残りがそこに居るってのに――まあ、いいか」

 金色の目を閉じた伯爵の姿が、見る間に色彩を失って黒々とした影と化す。蠕動するシルエットが次に形を成した時、そこに立っているのは一匹の佇立する黒猫だった。執事と並んでも尚追い越すほどの長躯を誇る物言う獣は、奇妙にも口と思しき場所が無いにも関わらず饒舌に語る。欲深く、猜疑心に満ちた双眸をぎろりと向ける先には、呆気に取られたモニカが居た。

「さて、あとは最後の生き残りを始末するばかりだな。手っ取り早くこの火事に投げ入れちまうか、それとも首でも刎ねておくか?」

 異形のまなこが無造作に首筋へ移ると、少女は身じろぎさえできぬまま全身の毛を逆立てた。冗談ではないのだろう、きっと彼は本気だ。そしてなんの造作もなく、自分を殺すつもりでいる。

 そんな両者の間に割って入ったのはキユウだった。モニカを僅かに後ろへ下がらせつつ、アデルの殺気に勝るとも劣らない剣幕をもって化け猫の暴挙を押しとどめる。

『お言葉ながら、それは不要でございましょう。彼女は何も知らなかったし、何も知らぬまま救出が間に合いました。国へ連れて帰ってはいかがですか。聡明なお嬢さんですから、然るべき施設において、正しい教育を受ければ将来いくらでも道はあります』

「へえ。だがそれをその娘は望んでるのか? 宴の席で耳に挟んだぞ。そいつは今まで何不自由ない生活を送っていて、傍から見れば不条理極まりない日々にも満足していたと。――確かに義父は人でなしだったが、なるほど。そこの娘には確かに家族であったろうし、ここは唯一無二の生まれた家でもあった。お前は、彼女を助けたつもりなのか? 俺達は自分の都合で、こいつの生活をめちゃめちゃに破壊した侵略者なんだぜ」

 

 キユウは応じない。ただじっと圧力に抗する盾となって、モニカが考え、選択する余地を守ってくれていた。

 少女は、この生活をどこかで諦めていた。本当なら、未亡人の連れ子などあの冷血な男に放逐されていたはずである。そもそも母が流行り病に侵された時だって、一緒に死んでしまってもおかしくはなかったのに。

 しかし生き延びた。将来は暗澹としていたが、あそこは紛れもなく自分の家で、曲がりなりにも義父は家族で――そこには少女の生活があった。正誤でも、善悪でもない。それが真実だったのだ。

 ならば健気に家へ戻って、火事の最中に義父を探してみようか? 仮に変わり果てた姿であったとしても、後を追うという選択肢もある。どの道、頼りにできる人間の選択肢など無いに等しい。

 逡巡して、体は屋敷へ向きかけた。けれど、結局その場に縫い止められたように動かなかった。翻弄されてばかりの人生であるが、自分の命はすなわち、そのような流れの中で足掻くものだと理解した。

 降ってわいたように義父がやってきて虐げられたのも、その男が突然死に、家がなくなったのも。全ては彼女の意志の外で起きた事。ならば今更文句を言っても始まらない。

 なによりこれから先の日々は、なるほど。ゼロからのスタートにはなるものの、今までよりも希望が多いようにも思えた。

「……キユウ様、アデル様。私、ご一緒に参ります。どうぞ連れていってくださいませ」

「あ? いいのかよ、あんた。なにか持っていきたいもんとか……ああ、そうか。この火の手じゃ取りにも戻れないか」

 火を投じた本人であろうに、化け猫アデルは悪びれもせず頷いた。しかしそれが妙に真剣な様子であったから、場違いとは分かれどモニカは笑ってしまった。

「構いません。私に必要なものはこの本、ただ一冊きりですもの」

 

 

 浄化の炎が煌々と燃える。やがて街の火消しが駆けつけたのを物陰より見届けてから、三人は歩き出した。

 頭上には満月。闇の中には星の光も無数に見える。明りには事欠かない、そんな夜を進む。逸る気持ちを抑えきれず、いまだ暗幕の向こうへ姿を隠す明日へ追いつこうと、少女は足を速めた。