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御伽の国の夜

 此処は御伽の国。子供達に実在を信じられ、大人達からの密かな郷愁を集める剣と魔法の世界。

 紫色の夜空に、丸々太った橙色の月が昇る。

 天を突くほど高い時計塔は、夜半を告げる鐘を堂々と響かせた。三角お屋根の可愛らしい家々。国の中央に鎮座する石造りの王城。飛び立つカラスの群れ。駆けていく黒猫は硬い爪で石畳を叩きながら遠ざかっていく。

 薄っすらと霧が出始めた。

 ひんやりと肌を湿らす夜風が悪戯に髪を弄び、薄情にも通り過ぎていく。

 町を横断する運河に差し掛かった。水のほとりは一段と冷え込んでおり、心なしか霧も濃く感じる。馬車が難なくすれ違う事ができるほど広く、頑強な石橋の上には人影が二つ。寄り添いあうさまはまるで恋人のようだが、それがただの甘い逢瀬ではないと知っていた。

 男の白いコートが優美に舞う。事務的な抱擁から解かれた女性は支えを失い、まろびながら遂に柵を越えて宙に身を躍らせた。橋げたの近くで飛沫をあげて沈み行く彼女の物音はあまりに慎ましやかで、まるで遠い世界の出来事のよう。

 黒い手袋に包まれた手で黒い帽子を取った男は、淡い薔薇色の髪を風に遊ばせながら、今夜の月光を浴びている。今の今まで睦みあっていた女が冷たい川へ落下した事に対する動揺は皆無だった。然るべき段階を経て給仕にさげられていく食器を見送るような、そんな落ち着いた横顔だ。

 やがて彼は思い出したように再び深々と帽子を被りなおす。いくらつばを引き下げたとて隠し切れない口元は、薄っすらと赤く染まっていた。歩みに迷いはなく、此方へと真っ直ぐに向かってくる。互いの距離は難なく縮まっていき、やがてすれ違う直前。

「此方の夕食はつつがなく済みました。マヨア少佐は予定通り、デザートをどうぞ」

 囁かれた言葉の意味を咀嚼し、僕は頷いた。死を伝え走るデュラハンすら馬を休め、死を悼んで泣き叫ぶバンシーすら疲れて眠るこの夜中。不穏な宝物の詰まった棺を引きずりまわして移ろうのは、吸血鬼くらいなもの。

 甘美な夢想は、転じて酸鼻な悪夢にもなりうる。御伽噺は矛盾と二律背反を飲み込みながら、なおも大きく大きく広がるだろう。

 星々が歌い、月が笑う夢の中。遠大な夜よ、永遠なれ。