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赤いドレスの女

 目の前にいる美しい生き物に、逸る気持ちを抑えきれず手を伸ばした。

「あなた、狼男と吸血鬼の混血なんですってね。私のお得意様が教えてくれたの」

 ベッドに腰を下ろす彼はされるがままになっている。酒場の二階に設えられた粗末な部屋の中でさえ、男の佇まいは凛々しいままだった。まるで此処が、どこか遠い世界の王宮にあるロマンチックな寝室のように。

「どちらかというと、白馬の王子様みたいな雰囲気に思えるわ。人じゃないものって、みんなあなたみたいに麗しいの?」

 物言わぬまま見返してくる色違いの瞳。そこに感情はなく、ただ穏やかに凪ぐ海を思わせた。

 そのしじまに沈んでいきたい。静かな、静かな赤と金の海へ。血と月の光を思わせる瞳の中へ。

 首元にきっちりと締められたスカーフを片手で緩めながら、欲望のままに唇を寄せた。口吻の重なる直前、彼はゆるりと体を後ろへ倒す。あっと言う間もなく、もろともくたびれたベッドへ倒れこんだ。

 男は黒い手袋の指先を噛んで、節くれだった手を晒す。その手がこれから自分に触れるのかと思うと、早くも背筋を快感が走った。彼が触れてくる。安っぽい赤いドレスの肩紐を落として、豊かな胸元を下から掬うように握りこんだ。強引で、遠慮がない。零れだす思いのまま花を咲かせて、女は彼の腹の上で身をよじらせた。少しくらい乱暴な方がいい。

「ねえ、名前を」

 震える息を集めて、ようやく言葉を発した。

「名前を教えて。あなたの、名前。どれだけその頼もしい背中に縋れたとしても……呼べる名前がないんじゃ、嫌だわ」

 不意に、ぴたりと彼の手が止まる。胸元を離れた掌は、そのままわき腹を通って離れた。昂ぶりかけていた気持ちは突然、冷水を浴びせかけられたように萎縮した。このまま半端にくすぶる熱を自分で鎮めなくてはいけないのかという絶望と、もしや自分が今夜、彼に接触した目的を看破されたのかという恐れ。

 彼女はしがない夜の蝶。両親の期待を一心に受ける優秀な姉妹達の影で小さくなる、惨めな日々が心底嫌だった。自分が平凡である事をけして認めたくなかった。今にみていなさいと意気込みながら、そのはけ口を遂に見失ってしまった若い女。

 だから例えば、白雪姫を陥れた魔女が貧しい部屋に踏み込んできて、ある男を夜半まで引き止めておいてくれと突然依頼してきたとしても。彼女には特に断る理由がなかった。何をしたいのかもわからなかったから、何をやりたくないのかももう、わからなかったのである。

 見せられた標的の写真に、一目で魅せられた。今、その男は彼女の目の前に居る。息さえ触れられそうな距離に。

 簡単な話よ。吸血鬼だかなんだか知らないけど、所詮は男じゃない。一晩中だってベッドに縛り付けとくくらい訳はない。

 彼女は何もわかっていなかった。

 正に今、最後の自由を証明する自らの羽が、ゆっくりともがれていくのにすら。

「君に俺の名前を告げる必要はない。俺が君の名前を聞かなくても構わないように」

 赤い色と金の色が深く、深くなっていく。女はあどけない少女に戻ったように、ぽかんと口が開いているのに気づかぬまま。吸血鬼はその唇に酷薄な笑みを刻んで、彼女の長いブロンドを指で梳いた。一定の間隔で、子供を寝かしつける仕草にも似て。

「実に見え透いている。協力者に赤いドレスを着せるなんて、こいつが裏切り者だと教えているようなものだ。君も、そう思うだろう」

「ああ……ええ、その通りね」

 彼が自分に触れている。視線が自分だけに注がれている。その事実が嬉しくて、深く考えず頷いた。考える事など何ひとつありはしない。此処に彼がいて、そして自分がいる。それより大切な事があるだろうか?

 髪を撫でながらゆっくり体を起こすと、女の唇へ挨拶代わりの口付けを落とした。一分の憐憫も躊躇も表出させないのが、恐らくこの吸血鬼なりの礼儀であり、美学なのだろう。企みが全て露見し、哀れにも相手の手中へ落ちた密偵の末路など既に決まっている。だからこそ、彼はこれからの行動に余計な感情が挟まらぬよう努めた。羽を失った蝶に未来はない。

「外へ行こう。できるだけ人通りのないところ、運河の近くがいい。邪魔者が入る前に、二人きりで」

「ええ、そうしましょう。シアン、そこでも私に触れてくれる?」

「もちろんだ。君の一番大切なものを貰うために」

 その瞬間、彼女はかつて味わった事のない幸せを噛み締めた。何時も自分の頭上を通り過ぎていたもの、他人から与えて貰いたかったもの、それがようやく手に入った気がした。それは関心であり、愛情だった。彼は自分を求めてくれている。そして、自分が持つものを心から欲しがってくれている。

 それなら、それをあげたいと思った。それが彼女なりに考えた、愛の返し方だったのだ。

 

 粗末な部屋には、乱れたベッドと消し忘れたランプ。開け放たれた窓だけが残された。