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ベイクドアップル

 天国はある、きっとどこかに。そこへ辿り着く手段はけして難しくはないが、易しくはない。

 曰く、自身の取り分を喜んで分け与えよ。曰く、困窮者を見捨てるな。地上における富は全て無意味。

 絶対的な庇護を受けて憩う楽園。ドクスは遥かな土地に思いを馳せながら、車の窓から流れる景色を眺める。深夜、人通りはほとんどない。聞こえるのは低いエンジン音のみだった。黙してハンドルを握るシアンはただ機械的に、一路軍部へ舵を切る。

 後部座席のスペースは十分で、脚を組んでもまだ余裕があった。退屈のためか、何度も姿勢を変えている自分にようやく気づくと、ドクスは小さく笑う。耳ざとい人狼はちらりと、バックミラー越しに此方を窺った。

「どうかされましたか、大将」

「いいや。シアン、お前は天国を信じるか?」

 藪から棒に問いかける。それはドクスの脳内でしか繋がっていない質問の流れだ。しかしシアンは訝る様子もなく、薄く口を開く。

「それは確かにあるのだと論じる本を読んだ事がありますし、実在を信じる人間にも会った事があります。ならばきっと、あるのでしょう。無いと断定するほど、私は世界の隅々まで知っている訳ではないので」

「謙虚だな、軍曹」

「そう仰るドクス大将はどうお考えなのですか」

 黙する夜、泰然と座る影。

 思い描く天国に広がるのは何時だって青空、澄み渡る空気、明るい場所だ。そこにドクスが持つ要素は一つとてありはしない。例えば暗い夜、生臭い血、飢えが無いからこその天国だ。細めた目に偽りのない愛しさを込めて、答えを返す。

「吸血鬼が居るんならよ、天国もあってくれなきゃ困るぜ。俺達が残らず葬られた後にも、こんな風に湿っぽい夜が続くようじゃ誰も報われねえだろう」

 求めたのはこの遠大な歴史に相応しい終止符。まだ見ぬ英雄がきっと、この傲慢に居座る夜を殺してくれる事だろう。

 微笑む上官にならい、シアンもまた作り物めいた笑みを浮かべた。

「貴方がそう望むのなら、そのようになればいいと思います。しかし」

 色違いの瞳を伏せる青年は、瑞々しい苦悩にその唇を微かに歪める。

「我々が立ち入りを許されない園であるなら、実在不在の謎が解かれなくとも構いませんがね」