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かつて高みにありし者

 月光に浮かび上がる鏡が、物言わぬままシアンの姿を映し出す。今宵は満月、それも血のように赤く染まった不気味な月夜だった。

 室内は既に凄惨な有様である。物書き机は引っくり返り、積み重ねられていた本は残らず散らばっていた。引き裂かれたカーテンは幽霊のように揺らめき、途方に暮れている。全ての臓腑から吐き気を催してこみ上げてくる衝動は、名前をつけるなら怒りと歓喜によく似ていた。突き抜けた憤怒は咆哮の代わりにけたたましい笑いとなって喉から搾り出される。

 歪んだ視界が鏡面に認めたのは二つの色。狼男の金の瞳、吸血鬼の赤い瞳。そのどちらもが等しく、狂える獣を睨んでいた。

 かつて豊穣を齎した気高き狼の神格は見る影もない。血が濁ったのだ。今や飢えた本能のまま夜毎吠え散らし、森の中で少女を食い殺す化物になってしまった。

 固く握り締めた拳を、眼前の鏡へ叩きつける。

 何度も叩きつける。

 砕け散る欠片が肌を裂こうと。

 傷つく手はただ熱く、痛みはない。

 痛覚こそ現実へ呼び戻してくれるはずなのに痛覚すら満足に働かず痛覚はなぜやってこないのか痛覚が。

 騒ぎを聞きつけて駆け込んできた兵士の一人が、あまりに深刻な状況に息を呑む。勢いづいた呼気は喉をかき、笛に似た短い音を発した。まろびながら方向転換をした兵は、うわ言のように大将の名を喚きながら走り去っていく。

 こんなにも醜い。こんなにも不完全で、こんなにも堕落している。

 いっそ、顎を支える筋肉が裂けるのも構わず、あの忌まわしい月をもう一度呑み込んでしまおうか。肺の中の空気が空っぽになり、ようやく哄笑がやむ。忌々しい、眩暈すらしないなんて。

 諸悪の根源はどこにある。何を噛み殺せばこの憎悪は晴れるのか。

 

「――憎む相手が欲しいなら、此処に居るぞ。シアン軍曹、こっちを見ろ」

 

 冷ややかな呼びかけの一刺しが、シアンを釘付けにした。かしいだ扉の向こうから、ドクス大将が歩み出る。赤い月の光に照らされて尚、貴い青を従えていた。

「気高いお前を貶めたのは吸血鬼の血だ。体を巡りながら神経を引っかき、絶えず狂気を歌う忌まわしい毒薬は俺の青い血から作られた。俺は、お前に恨まれる資格がある。どうした、掛かって来い。臓物を引きずり出すなり、首をもぐなり好きにしろ。お前のためなら、一度くらい殺されても文句は言えん」

 シアンの表情を絶えずかき乱していた狂乱は、完全に沈黙した。凪いだ表情に全能の知すら湛えて、種こそ違えどかつて同等であった神格は向き合う。

「……ドクス大将」

 澄んだ硝子の音色をよりあわした言語は、恐ろしく無機的だった。ドクスは軽く片足を引いて、暴発寸前の爆弾を目の前にしたかのように身構える。

「ドクス大将は完全で、完璧で、高きに座している方。千の青い夜を体現する方、美しく、完全で、完璧な」

 時に、狂える意思は伝染する。常人ならとうに逃げ出している異常の中にあって、大将は敢然と挑み続けた。青い瞳は逸らされる事がない。

 色違いの瞳に明滅する、畏敬と憎悪と親愛と嫉妬と。

「そして貴方は、ルテナ中尉が心の拠り所とするたった一人の方」

 感情の奔流に、ぽつりと針の穴ほどの光が差す。ドクスはその変化に思わず目をみはる。必中の決意を秘めた殺意が、不意に逸らされたのだ。シアンは踵を返しながら、その矛先を半端に開いた窓の外へ求めた。

「ドクス大将。西方へ向けて、今の自分にお誂えの夜襲命令が下されていたと思います。その任を、自分に任せて頂けませんか。単独で、やり遂げます」

「止めても行くんだろう、お前は」

「ご命令を」

「ああ……構わん、止めやしねぇよ。それがお前の無聊を慰めるなら」

 号令を聞き終えてから、シアンは一匹の狼となって窓を打ち破り、駆け出していた。遠ざかっていくあまりに生き急いだ足音を聞いてから、ドクスもまたこの場から立ち去るべく振り返る。

 扉の傍には立ち尽くすルテナの姿があった。