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いたまぬ掃除屋/殺し屋

 向けられた銀色の刃先を怖れなく見つめ返す。

 掃除屋が仕損じた事はない。彼の雇い主は標的の本質を見抜くプロだった。どんな思想を持ち、どんなトラウマに支配されているのかを把握した上で、最適な仕事人を宛がう。

 

 歓楽街の裏通り、野良猫すら避けて通る細い路地。壁を背に追い詰められているのは掃除屋だったが、劣勢に立っているのは刃物を持った執事の方である。下手人を睨む翡翠の瞳は澄みきった覚悟に満ち、この使用人がけして他人を傷つけるのに躊躇しない部類であるのを物語っていた。やると決めたら相手が誰であろうと刃を突き立てる。これは脅しではない。彼は本気だ。

 指揮棒ほどの刃渡りがある小刀はよく研がれている。しっかり手入れをしているのだろう、飾りではなく実践的な道具として使用しているのだ。掃除屋は背中を預けていた壁から体を離し、ひたりと喉元を見据える白刃へ自ら近づいた。ナイフを持つ相手の手が、ほんの微かに震える。

「いいさ、おやんなさい。お前さんは躊躇わないだろうし、おれはちっとも怖くないさ。目の玉を抉られようが、鼻を削がれようがね」

 解せぬ、と歪んだ翡翠色が答えに思い至って瞠目した。こんな時すら声ひとつあげない無言の従者は唇の動きだけで苦々しく呟く。

 無痛の呪い。

「あたり。母親の胎の中に居る時、呪術師に呪われてさ。おかげでおれは産まれてこの方、痛みを感じた事がない。あァ、だからといって血を流しすぎれば死ぬし、感染症にでもなれば洒落にならんがね。……だが、痛みに頼んだ脅かしは通じんよ」

 それは厄介だ。執事は適切な痛めつけ方は心得ているが、別にそうするのに快感を覚える訳ではないし、ましてや人殺しにはなりたくない。絶対に。

「そうだろうさ、知ってるよ。あんたは自分を含めた大抵のものに価値なんぞ見出だしちゃいないが、殺しだけは絶対に嫌なんだろう? 掃除屋の素養はあるのに勿体ないねェ。執事さんなら結構いい線いくと思うのに」

 それは本心。惜しむ気持ちも偽りなく、半ば同類のように獲物を見る。

 対する執事は酷く申し訳なさそうに首を横に振って、声を出さずにゆっくりと口を動かした。

 人をあやめると汚れてしまいます。

「……手が、かい? 血なんぞ洗えば落ちるだろう」

 それだけでなく、自分の過去と、今と、未来が。それは濯いで薄まっても、けして落ちない。忘れられても無かった事にはならない。

 殺害を厭うのは、ただ手が汚れるのが嫌だからだと執事は語った。それならば、依頼殺人を生業とする自分の手はさぞかし汚れきって見えるのだろうと掃除屋は自嘲した。ナイフを向けてくる彼の手首に指をかける。意外にも振り払われはしなかった。

「なんだ。もっと抵抗されるかと思ったんだが」

 拍子抜けたあまりにそんな余分を口走ったせいで、掃除屋は気づくのが遅れてしまった。小さく小さく執事が何かの呪文を唱えているのに。

 詠唱特有の節回し、最後の一小節を括る単語に、行使されようとしている魔法の種類と意図を悟って咄嗟に距離を取ろうとしたが遅い。

 解呪の魔法。

 いかなる呪術も短時間であれば解除し得る上級の術だった。

 この瞬間、掃除屋にかけられた無痛の呪いは解かれてしまったのだ。

 離れようとして凶器を持つ相手に自由を与えてしまったのも悪い。変わらず切っ先はこちらに向いているのに、夢中で後ろへ飛びのこうとするなんて馬鹿みたいだ。切られる痛みなんて物心ついてより知らぬはずなのに、体はしっかり恐怖を感じている。けれど、ああ、遅い、何もかも。抜き身の刃の向こうで翠の瞳は解剖に挑む医師さながら、過たず目測通りに、顔を庇おうと突き出された掃除屋の掌を突き刺した。

 

 痛い、熱い、ねじ込まれる鉄の進撃に喉の奥で悲鳴が潰れる、それさえも痛い、こんなに鮮やかで、目の前がちかちかとするようで、心臓が途端にパニックを起こした、痛い、痛い、決定的な感覚や判断力すらも血液と一緒にぼとぼと落っこちていくような、捩れる皮の巻き込まれるさまも、切断される筋肉繊維も、組織細胞末端すべてすべてが叫んでいる、これが痛み、これが痛み!

 

 突き立てられたナイフが抜かれる事はなく、ふらふら後ろへさがった掃除屋は恍惚とへたり込んだ。

 夢か現実かをはっきりさせるのに、余人は頬を抓るという。痛ければ現実である。ついぞ痛覚に頼んで実感を得て来なかった男は、一抹の痒みを伴いながら薄れていく痛みを心の底から愛するようになっていた。

 

 魔法は解ける。痛みは失せていく。ただ『痛烈』な憧れを残して。

 標的の執事はいつのまにか姿を消していて、ばたばたと駆けつける町医者に変わっている。手酷い傷にひとまずの止血を試みる医者が幾度も声を掛けて来た。大丈夫ですか、痛みますか、しっかりしてください。

 確かに痛んでいた、ついさっきまで。これ以上の血を止めるために傷口付近を圧迫されるに任せて、男は子供のように笑って答えた。それは思い返してみれば、初めて口にする言葉だった。

「ああ、ありがとうな。手当てを頼むよ。なにせ……あんまり痛かったから……どうしたらいいか、わからなくなっちまったんだ」

 名づけるのなら一目惚れが最も近い。どうして今まで誰もこんな激情を教えてくれなかったのだろう。

 だって失敗に終わった仕事すらも嬉しかった。またあの執事と対峙すれば、もう一度この痛みに逢えるのだから。それこそが正しく相手の思うつぼであったとしても構わない。

 恋とは得てして盲目そのものである。