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降る降る雨の日/傘を持った怪人

 執事を雇った。俺達の間で交わされる契約に書類や金銭の出番はない。

 

 雨の中でこちらに背を向けて佇む黒いコートをみつけた。レトロなインバネスコートが雨粒を吸って執事の体に重たく被さっている。普段なら空気を含んでふわふわと毛先が揺れている金髪もすっかり軽さを無くして煌めきを失っていた。

 

 子供の頃、街に大雪が降った。

 夜を待って人目を盗みこっそり抜け出して、しんしん積もった雪に自分だけの足跡をつけながら冒険を楽しんだ。その時に、外灯の傍で明かりを頼りに雪だるまを作った。

 掌に乗る程度の小さなそれを、手袋が湿るのも構わず持ち帰って、窓際に飾った。けれど翌日の昼には、雪が雨に変わってしまった。

 見る間に溶けていく雪の末路と同じく、俺の雪だるまも音もなく、跡形もなく、消えた。

 

 このまま雨に打たれ続けて、まるで消えてしまってもいいと考えているような、ぼんやりとした背中。

 蒸発とか、失踪とか、行方不明とか。神隠しみたいに姿を晦ませたり、そう、人間はある時ふっと消えてしまう。

 執事の彼も、そういう人種なのだ。雨に溶けてしまう雪みたいに。傍にいますと誠実に約束をしてくる裏で、いつ自分が失われてしまっても仕方がないと思っている。

 何をしても正せない歪みを抱えている、渇望している願いが叶わないのを知っている、どうあっても許されない望みを大事にしている。

 目に入る限りの人を、知覚し得る全ての命を殺してみたくて仕方がない彼は、どうしようもなく悪人だから。

 

 思考の切れ目に差し掛かってようやく、相手の隣に辿り着いた。蝙蝠傘をさしかける。

 影の落ちた視界にまろく瞠られた翠の瞳。水滴の伝う横顔は泣き濡れたようにも見えたが、目許は白く冷え切っている。カガミさん、と驚いた様子で唇が動いた。

「よかったよ、執事さんがみつかって。ちょっとお願いしたい事があったんだ。また部屋の片づけなんだけどさ」

 

 ――きっとお互いにわかっている、相手とこんなやり取りをするのは自分じゃなくていい事くらい。

 君じゃなければ頼めない用事じゃないし、彼にとっての主人や友人だって誰でもいいのだろう。社交的な執事は殊更人を選ぶタイプではないのだから。

 極論、誰でもいいんだ。ただ大体いつも、居合わせるのがこの取り合わせという偶然に過ぎない。大層な理由なんていらない。誰かが、明日も今日と変わらない日常をよしとするのに、大義名分なんかあるものか。

 誰も心から愛せなくなってしまったから、必死でその感情を取り戻そうとしている事も、それができないから、益々自分が欠陥品であると塞ぎ込むのも。

 他の誰より、自分自身を一等嫌っているのも、知っている。

 でも彼は、俺の友人だ。

 傘に入れてやる理由なんて、それだけで十分じゃないか。

 

「執事さんが傘を忘れるなんて珍しいねえ。朝のラジオで、今日は昼過ぎから本降りになるって言ってたよ?」

『昨晩の予報では、一日持ち堪えると言っていたので』

「ああ、そういえばそうだったな。天候予測の魔法も、この先もう少し精度が上がっていくといいんだけど」

『仰る通りです』

 

 ああ、でも。迎えに来て頂けるなら、雨もそう悪くはありませんね。

 

 普段は傘を持って出迎える側であるはずの執事は、今は遇される有難さに浸っている。傘の表面を叩く粒に拍子をとって、二人で辿るあたたかな帰路に歌を口ずさみながら。