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本日も大変よく生きました。

 足元に血のついた包丁が落ちている。

 まだ目立った汚れの染みついていないフローリングに、べったりと流れ出した血液が見えた。

 私は仕事用鞄の重みに耐えきれず、リビングの床にへなへなと座り込んだ。ジャケットが皺になるとか、タイトスカートに埃がつくとか。そういうのは、あまり気にしてられなかった。

 ローテーブルの近くに同期の女性が転がっている。

 血の出所は喉のようだった。一思いに突き刺した刃を引き抜くと同時に、鮮血の噴水ができあがったのだろう。均一にファンデーションの塗られた顔には放射線状に真っ赤な返り血の線が走っていた。きっと首にある太い血管を一度に絶てたのだろうな。

 口を閉じておく筋肉が弛緩しているのか、顎が外れたように開かれたうろから、だらりと唾液で濡れている舌がこんにちはをしている。

 

 きゅうめいそちとか、そせいをこころみるとか、わからない。

 あ、きゅうきゅうしゃ、よばなきゃ。

 ケーサツも?

 

 頭の中で絶え間なく思考が巡るものの、手足は鉛みたいに重くて動かない。

 吐き気さえ遅刻している。どっ、どっ、と脈打つ心臓だけがうるさい。

 いま何時だ。

 見上げた壁掛け時計は夜の十時を指している。

 じゃあ家に帰って来てこの死体と対面して、もう三十分は経ってるんだな。

 放心状態のままスマホを探す。葬儀屋さんじゃないよな、救急車って死んでる人は乗っけてくれないんだっけ、じゃあ警察か。でもこれって私が逮捕されちゃわない?

 だとしても一晩、死んでる人と一緒に過ごすのやだな。

 片付けなきゃ。

 明日も仕事だし。

 

 違う違う違う違う違う。

「あ……」

 ぶるりと震えが奔ったのを契機に、ようやくパニックの前兆が訪れた。同期の名前を呼ぼうとして息を吸い込む、もうどうしようもなく、返事なんかできる状態じゃないのに。腰が抜けているのにも今更気づいた。這って近づこうと試みて、血まみれの包丁に指先が当たり、ひっと引きつった悲鳴があがる。

 こんなの絶対現実なんかじゃないんだ。

 助けて、助けて、誰でもいいから助けて。どうしたらいいのこんなの知らない聞いてない、目の前で誰かが死んでたらこうしましょうなんて学校でも教わんなかった、上司だって先輩だって教えてくれなかった。

 きもいこわいわけわかんない。

 死体から全力で背を向けると、さっきまでまるで別の人の体みたいだった下半身に力を込めた。ストッキングで包まれた爪先が滑る、気にせず立ち上がろうとしたからよろめいた。前につんのめりながら玄関を目指す。廊下の壁にぶつかりながら出口を渇望する。スマホだけは握り締めたままだった。

 

 

 がちゃがちゃとドアノブを捻る。開かない。なんで。鍵かかってる。開けなきゃ。鍵どこだっけ。キーケースは鞄の中だ、でもリビングへ取りに戻るのは絶対嫌だ。

 

 なに言ってるんだ。馬鹿。

 内側から開けるのに鍵は要らないじゃないか。

 震える指先で開錠すべくつまみに手を伸ばし、それを捻った瞬間だった。

 間延びしたチャイムが鳴る。

 うそ。

 誰。

 両手で胸を掻き抱きながら後退る。覗き穴から確かめればすぐわかるけど、そうしようとする勇気も無かったし、そうすべきだと考える知性も働かなかった。再び足から力が抜けていく。

 逮捕されるのかな。誰が来たんだろこんな時間に。そんなの警察しか居なくない? やっぱ逮捕されるんだ私。死んでる人が居るのになんにもしなかったから。救急車すら呼べないばかだから。こんなんだから毎回、仕事の覚えが悪いって上司に責められるんだ。

 今日一日の仕事のミスが急にフラッシュバックしてきて、世界一場違いな涙が込み上げてくる。滲む視界の中で、ゆっくりとドアノブが回った。

 そういえばさっき自分で鍵を開けたんじゃないか、と。

 

 姿を見せたのは、見覚えのない長身の青年だった。

 警察官では、無さそうだ。彼はまるで、遊園地のパレードで演奏するマーチングバンドみたいな白い制服に身を包んでいる。

 最初から私がへたり込んでいるのを知っていたかのように、青い瞳がまっすぐこちらを見下ろしてくる。片手には旗を持っていた。観光地を先導するガイドさん、という平和なイメージが頭を過ぎる。

「こんな所に座り込んでどうしたんだ」

 駅とか公園とかで困っている人に声をかける時も、こんな風に優しく話してくれるんだろうな。

 生憎ここは公共施設じゃなくて私の家なんだけど。

 勝手に上がりこまれた不法侵入より、久しぶりに見ず知らずの人から親切を受けたという感動と、ついさっきまでの混乱が混ざり合って、結局正常な思考からは程遠かった。

「あの……人が、し、死んでるんです」

 震える指で廊下の突き当りにあるリビングを指した。ガイドマン風の青年は眉一つ動かさない。

「そうか、それは困ったな」

 ぜんぜんそんな風に思っていない言い方だった。冷静を通り越して無感情である。そんな平たい声音のまま、相手はとんでもない事を言い出した。

「実はこちらでも誰かが死んでいる」

「え――!?」

「どうしたものかと思っていた所だ。……君の知人ではないだろうか?」

 大きく開かれた扉の向こうは、マンションの外廊下ではなかった。玄関のドアから繋がっているそこは、なぜか浴室だった。青年の後に続いて呆然と歩み始める。

 

 

 窓の無いユニットバスの浴槽に、ぐったりともたれかかる少女が一人。私が通っていたのと同じ学校の制服を着ている。

 知り合い、かな、わかんない。まず顔が見えない。でも高校生の知り合いなんてすぐには思いつかないし。

 浴室内に立ち入る。足の裏がしっかり床を捕まえられているかどうか不安になったが、ちゃんと歩けているみたいだ。

 バスタブの縁に片腕を乗せた少女は、振り乱した髪もそのままに死んでいる。床には大量の錠剤と、風邪薬の空き箱が散らかっていた。首の後ろにほくろがある、肌は白いを通り越して青白い。もう血が通っていない屍であるという証拠だろう。口の周りには髪の束が固まっていて、白い泡のようなものも見える。

 そこまで観察してから吐き気を催して目を逸らした。

 

「多分……知り合いじゃ無い、です」

「ここは君の家じゃないのか?」

「私の家、ですけど」

「自分の家に家族でもない人間が二人も死んでいる、なんてあり得るのだろうか」

 ガイドマンは、そんな話は無いだろうと暗に言いたがっている。

 それは確かに、常識的に考えれば有り得ないだろうけど。

 でも建物の構造もおかしいし、普通に知らない人が入って来るし。ここまで一度も、常識的な出来事なんて起きていないじゃないか。

「ともかく……電話、通報、しないと……あ、こういう時って救急車、先に呼んどいた方が」

 いいんですかね、と青年へ問おうとした声は途中で途切れた。

 半開きのドアを背に立っていた私の首筋に、するりと第三者の指がかかる。

 ガイド風の青年のものじゃない。彼はまだ私の前に立っているんだから。

 じゃあ、これは誰の。

 

「まだ制服を着なきゃならん年代なのにさ。この歳で母親の代わりを務めるなんて大変だよなあ」

 耳元に響く少し掠れた低い声。もう片方の手が脇腹を通って回される。ぐっと抱き寄せられてもまだ、声が出せなかった。大人の男の人の力だ。口の中が急速に乾いていく。命綱みたいに握り締めていたスマホが滑り落ちた。床の上を跳ねて、佇んでいるガイドマンの足元で止まる。

「……でもやらなきゃな、これから二人で支え合って暮らしてかないといけないんだぜ。今まで立派に育ててやった恩を返してくれよ。まったく最近妙に色気づきやがって、妙な虫がついたらどうするんだ。親心っていう奴だよ、この心配は。それとも――父さんの言う事が聞けないのか?」

 言われたくない聞きたくない台詞の羅列だった。ミキサーと化した頭の中に腐った果物を投げ込まれて、無情にもスイッチを入れられてしまったみたいに。

 生温い体温が服越しにじわじわ浸透してくると、夢中でもがいて暴れる。

 

 でも、あの時は結局、駄目だったんじゃないっけ?

 

 

 そんな絶望的な予想に反して、背後の人物はあっさり解放してくれた。反射的に振り返ると、目に飛び込んできたのはさっきまで幻視していた人物ではなかった。

 またも見知らぬ人物。黒い短髪にダークスーツを着込んだ若い青年は、貴族然とした品の良さを纏いながらも、どこか高慢な態度で私を見下している。

「年頃の娘が一人暮らしなんかするから妙な事に巻き込まれるんだよ。ほら、家に帰るぞ」

 まったく面識の無いその男は、満月みたいな黄金色の瞳を細めて手を差し出してきた。

 そんなの、はいそうですかって応じられる訳が無い。第一意味がわかんない。

「……親御さんが迎えにきたのか?」

 背後から穏やかな声が聞こえる、最初に会ったガイドマンのものだろう。

 違う、こんな男は知らないと言いかけて、音として発せられる前にとんと背中を押された。

「なら、君はちゃんと話をした方がいい」

 促す青年はどこまでも思い遣り溢れる声でそう告げる。あ、スマホも拾えてないのに――ベージュのストッキングに包まれた私の素足はドアを潜り抜けて、マンションの外廊下へ踏み出している。

 数歩先には得体の知れないセクハラ男が居た。電灯が無言で照らす通路は静まり返っている。左手に整然と並ぶドアの向こうから、他の住人の生活音は聞こえない。

 最近のマンションは、防音構造に優れてるし、外に出ちゃえばこんなものか。どんな不審な物音だって、万全に詰め込まれた断熱材が吸い込んで、熱も音も外へ逃げない。

 ここで叫んでも、誰も来てくれないんだろうな。

 ひとりだ。

 変な男とふたりっきりだ。

 こんなに人が居る都会なのに。ほとんど満室のマンションなのに。

 誰もいないんだ。

 手を差し出している男の背後に、にゅうと踊る細い影がある。見るとそれは猫の尾のようだった。化け猫だ。金色の双眸は瞳孔が縦に裂けている。

 もういやだ、私がなにしたっていうの。

 ふらふらと後ろへさがると、ぴったり閉まった扉に背中が当たる。顔を濡らすのが、冷汗なんだか、涙なんだか、鼻水なんだか唾液なんだか。

 化け猫男が数歩分開いていた距離を詰めて、私の手首を掴んだ。やだと思わず大きな声を上げたが、相手には通用しない、やっぱり誰も来てくれない。

 そのまま力任せに引っ張られると、夜空と街並みが広がる外周側に連れて行かれる。

「お前、昔から高い所は苦手だったよな? なのにどうして、マンションの六階になんて住もうと思ったんだよ」

 落下防止の名目のためだけにつけられた手摺に胸がぶつかった。後頭部を鷲掴みにする手がぐいぐいと押してくる。呑み過ぎて吐こうとしている酔っ払いを、便座に固定するみたいな容赦の無い手つきだった。

 頬を撫でる夜風が、眩暈と共に飛び込んでくる目下の景色が、ひょっとしてこっちが現実なのではないかと主張してくる。

 夢なんかじゃなくて。

 単に私の気が狂っただけで、これは現実のままなのかもしれない。

 やめてって言わなきゃ。死にたくない死にたくない。

 

 必死で掴まれる場所を探していた最中だった。ちょうど真下のアスファルトに、白い線が引いてあるのに気づく。

 それは人の形をしていた。

 数字の書かれた小さな立て札みたいなのも置いてある。立ち入り禁止の黄色いテープも。ドラマでよく見る、事件を処理している最中の風景だった。

 ここで落ちたら。

 今度は、私が死体になるのか。

 

 

 理解した途端に、あれだけ力一杯押さえつけていた手の枷が消える。危うくバランスを崩しかけたが、なんとか安全地帯である後方へ重心を傾けた。尻餅をつく、まばたきを忘れていた目が途端に痛み始めた。

「お父さんと話はできたのか?」

 傍らから投げかけられた問いは、旗を持った青年から発せられていた。間接的に、彼のせいで転落死の恐怖を味わいかけたのだと怒りが湧いてきたが、虚脱感の方が勝って激情はすぐに萎んでしまう。あの尻尾の生えた黒い男は消えていた。

「……あの人、私の父親なんかじゃないです」

 見た目、同い年かってくらいにかなり若かったし。ぜんぜん似てないし。ちょっと見ればわかりそうなもんだけど。

「そうか……。すまない、俺にはわからなかった」

 わからなかったのかよ。

 ただあまりにも申し訳なさそうに言われたので、結局文句は一言も言えなかった。こういう気弱な所が、私は駄目なんだと思う。

「それで、何も思い出さないのか」

「……何も?」

「部屋で死んでいた人物達について」

「そんな……浴室の女子高生はよく顔見えなかったし、一人目の……リビングに居た方は、会社の同期で……」

「その同期の名前は?」

「え?」

「なんていう名前なんだ。一緒に働いている同輩なんだろう」

 そんなの。

 あれ――。

 なん、だっけ?

「それと、バスタブの近くで死んでいた女学生だが。首筋にほくろがあっただろう? 君が後ろを向いた時、実は同じような角度で背後から写真を撮ってみたんだ」

 目の前に提示されたのは、さっき見た死んでいる女子高生の写真と、ほとんど同一のアングルから撮られた私の写真だった。

 同じところにほくろがある。仕事中は髪を束ねているから、学生のものよりはっきりと視認できた。

 それに心なしか、雰囲気が似ている。

 わざわざ自分を、こんな後ろから鏡で眺めるなんて無いし、顔もよく見えなかったから、すぐにそうだと気づかなかったのかもしれない。

「だから死体の二つとも、 実は君だったんじゃないのか」

 何を。それこそありえない、だって私は今こうして生きているのに、

 

「あ――違う、私、違うんだ」

 

 今まで生きてたんじゃなくて。

「ずっと、死んでなかっただけだ。死にそびれて、死ねなかっただけで。今まで見てきた死体はぜんぶ、私だったかもしれないもの、なんだ」

 誰も居ない職場で上司に腕を掴まれた。仕事ができないお前に目をかけてやってるんだからと脂臭い息が近づいてきて死にたくなった。

 おかあさんが居なくなったんだから、今日からお前が頑張らなきゃいけないんだぞと。お父さんに毎日毎日言われ続けて死にたくなった。

 その時、その都度の、死にたい願望を本当に叶えていたら、とっくにそうなっていたっておかしくなかった。

 そうでなくたって、不慮の事態であっさり逝ってしまってもなんらおかしくないのである。死のうとしなくたって、死にたくないってどれだけ思ってたって、人はほんの弾みで死んでしまうものなのだから。

 気づけば周囲には多種多様な私の死体が山積している。

 首にロープが食い込んだもの。電車に轢かれたもの。車にはね飛ばされたもの。頬のこけたもの。舌が喉に詰まっているもの。頭の割れたもの。水を吸ってぶくぶくに膨れたもの。何かに食い千切られたもの。半分以上腐っているもの。

 あんまり一杯あって、リアルなマネキンみたいで。

 だからなにも感じなかった。全部自分の顔だし。きもい人形だな、としか思わない。

 立ち上がる。廊下に所狭しと並ぶ屍達が見えない所に行きたい。ガイドマンがとある扉の横に立っている。そこには、私の部屋があった。

 スマホを差し出される。受け取る。ノブを捻る。ドアが開く。

 

「ただいま」

 

 

 今日も死なずに帰ってきた家主を明るく出迎えたのは、人感センサーで点灯した部屋の明かりだった。