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案内屋の受難

  • 未来地図

 ねえ、おにいちゃんは神さまを信じてる? 手を繋いだ少女からの無垢な問いかけに、案内屋は穏やかに微笑んで首を横に振った。事実、生まれてこの方、特定の存在へ信仰心を預けた事は無い。

 地図屋が頒布した観光客向けのマップに重大な欠陥があったため、市街地の大通りは老若男女問わず迷子で溢れ返っていた。いくつかの誤植程度で済めばよかったのだが、百年後の都市計画図を大量に印刷してしまったばかりに、街の構造がまったく違ってしまっているのだ。おまけに少なからず現在の地名と合致してしまっている部分もあるので始末に悪い。面白いように人が迷う。ガイドで生計を立てている案内屋は今日の多忙を書き入れ時ではなく、人災によって生じた悪夢であると認識しながら対処にあたっていた。

「神さまを信じていないひとは、神さまに見はなされているんだって」

 今しがた通り過ぎたアイスクリームの屋台に視線を奪われながら、少女は歌うように言う。案内屋の返答は安らかな声音のまま変わらない。――ああ、そうだな。俺は産まれてこの方、神様に嫌われてしまっているらしいから。

 

  • 視界侵略

 ようやくみつけた両親へ少女を引き渡してから、案内屋は今まで繋ぎ合っていた掌を見下ろす。まだ微かに小さな体温が残るそこに、ついさっきまで預けられていた子供の手を幻視した。

 剥き出しの血管に流れる、目にも鮮やかな赤い色。蠕動する筋肉繊維。普通の人間なら皮膚によって隠されているそれらが表出してしまっている幼い肉体、まるで口から手を突っ込んで無理やりに人体を裏返してしまったかのような。肉塊と評するほかの無い生物はあの少女だけに留まらず、ごった返す観光客の全てが、商店街の商売仲間達すらも、言ってしまえば現在視野に入る人間は全員。案内屋にとっては、ただの活ける肉塊にしか見えないのである。

 生まれついてこの奇妙な視界をもって生活してきたので、目に入った程度、会話程度、触れ合う程度で取り乱す事は無い。彼にとっては両親ですらも、そのようにしか視認できなかったのだ。恐怖も嫌悪も、とうに過ぎ越してきている。案内屋は独力でこの試練を乗り越えてしまった。ほとんど誰にも知られる事なく、それゆえに誰も、案内屋から自分が肉塊として見られているなんて思いもせずに、また案内屋自身も自らの視界こそが世界の正しい在り方なのだと信じ切ったまま現在に至る。

 道を尋ねたいのですが。新たな客《かいぶつ》に話しかけられて、ガイドマンは振り返った。口元には友好的な笑みを仄かに浮かべ、朗らかに応じる。案内屋が神を信じていないのは道理だった。彼にとっては肉塊にしか見えないそれを、崇める趣味は無かったのである。

 

  • 救済措置

 止め処なく迷子を量産していた原因である地図は、午後には正しいものが刷られて必要な人の手へ遍く渡った。観光客は各々、自分の足で目的地へ向かえるようになり、朝から働き通しだった案内屋は静かに息を吐く。ようやく遅めのランチにありつく事ができそうだ。往来から頭二つは飛び出ている白衣のガイドマンは、長柄の旗を片手に裏舞台へとさがろうとする。

 そんな彼の肩を指先で叩く手があった。振り返った案内屋の青い瞳が、愛想抜きの安堵で穏やかに細められる。彼の視界を行きかう肉塊の只中にあって、金髪の執事だけは人の形を保って微笑んでいた。――『これからお昼ですか?』ああ、そうだ。『宜しければご一緒させて頂いても』同志ならもちろん、構わない。そんな短い会話を経て、案内屋は馴染みの喫茶店へ向かうべく一歩を踏み出す。先導されるのを数歩後ろで殊勝に待っている従者に、緩やかに手を差し伸べた。

「同志、どうせなら傍らを歩いてくれないか? 輩《ともがら》のように他愛のない話をしながら道中を楽しみたい」

 たった一人の同形、たった一人の友。ふわふわとした笑みと共に望みを叶えてくれた執事に、心からの礼を述べる。安らげる時間がある限り、孤独とは無縁だ。彼は神を信じていないが、どうやら本当に見放されているという訳ではないらしい。