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護衛屋の失敗

  • 脱走劇

 本当に驚いた時、人間はすぐさま声が出なくなるものだと護衛屋は実感した。手を繋ぎ合って歩いていた子供が駆け出したのに、道中を守っていた少女は即応できなかった。

 今までそんな事は無かったのに。愛用の盾を投じて、その子の目の前に即席の壁を作る術だってあった。そうするべきだった。一緒に歩いていたのは今回の護送対象である。隣町の貴族の家には、その子の新たな父親となる人物が首を長くして待っているのだ。

 小さな背中にふわりと広がる銀色の長い髪がまるで、透き通る妖精の儚い羽のように見える。

 護衛屋は気づけば、ぎゅっと爪先を踏みしめてその場に留まっていた。しかしそれも一瞬のこと。今いる裏通りから飛び出し、大通りの雑踏へ飛び込んでしまった子供にきつく眉根を寄せた。「待ってください!」落ち着いた少女の声が高く張り詰める。自らの呼びかけを追うようにして、放たれた矢のように走り出した。

 

  • 曲がり角から菓子屋

 視野が極端に狭まっていたせいだろう。前方にしか注意を払っていなかった少女は、右方から歩いてきた人影の真横に突進してしまった。前後に振り上げた手がふわりとその人物の纏う、レースとシフォンをふんだんに使った黒いケープへ吸い込まれる。アレレー?という菓子屋の頓狂な声が頭上ほど近くから降ってきた。

「護衛屋ちゃん? どしたの、そんなに急いで。前もろくすっぽ見ないで走りだすなんて、クールな君にしては珍しいねえ。鬼ごっこ?」

 申し訳ありません、護送対象を見失ってしまって――。大きく瞠った少女の琥珀色の瞳は、相手に怪我が無いかどうかを案じている。対する人形のようなパティシエは、シンバルを鳴らすサルよりもご機嫌に手を叩いた。「ボクは平気だよ。それよか大変だ、一緒に追いかけたげる。どんな人を探せばいいの、二人でかかればすぐ捕まえられるよ」

 当たり前のように手伝いを買って出てくれた相手に何度も頭を下げると、そんな事してる場合じゃないってばァとまた笑われてしまった。手短に子供の特徴を伝えている途中で、ちょっと目を離した隙に菓子屋は居なくなっている。神出鬼没だ。我に返った護衛屋もまた、唇を引き結んで人波の隙間を縫いながら探し始めた。

 

  • 向こうから古物屋

 護衛屋はまだ十代の少女だが、屋号を掲げて一人立ちしている。要人の警護から、迷子になった子供の帰路を守るまで、全ての依頼へ真摯に、適切な態度で臨んできた。開業当初から仕事の完遂率は高いと評判で、経験を重ねるほど練度を上げ磨かれていく。正直、護送する人物と思いがけずはぐれるなんて、そんな初歩以前の問題を起こした事など無かった。迷いがあったのか――。銀色に煌めくものを視界の隅で見つける度に振り返るも、それは貴婦人の纏うストールであったり、元気よく跳ね回る子犬の毛並みであったりした。

 早くみつけないと。護衛屋が守りを頼まれた以上、あの子供は第三者に狙われているとみて間違いない。委細を聞くまでには踏み入っていないものの、確かにあの長い銀の髪は僅かに魔法を帯びているような、奇妙な輝きを秘めていた。気づけば息が切れている。子供の足なら遠くへ行っていないはず、しかもあんなに目立つ色の長髪を持っているのに、こんなに見つからないものだろうか。少女は息を切らして、額から伝う汗を拭うのも忘れていた。

 こんなにも必死になっている護衛屋は、なぜかこのままあの子供が見つからずに済んだらいい、とも思っている。

「ステラ。どうしたんだ、そんな息を切らして」

 呼びかけられたのは護衛屋の名前だった。驚いたような男性の声は聞き馴染んだもの。俯きかけていた顔を上げると、黒髪に金の瞳を持つ、猫のような古物屋が立っている。大叔父さん。護衛屋は掠れた声で、縋るように相手を呼んだ。

 

  • 役者は揃う

「ああ、ああ。こんな汗だくになって、お前らしくもない。今日は仕事だったんだろ? おじさんに話してみなさい、どうしたんだ、上手くいってないのか」

 護衛屋の憔悴ぶりに、古物屋の方が狼狽えている。麻のジャケットから真っ白のハンカチを取り出すと、広げた絹の布地をそっと日除けにかけてくれた。なんとか事情を説明しようと、無理やり飲んだ唾液で喉を潤す。その時、おおーいと間延びした菓子屋の声が響いた。

「鬼ごっこ! 捕まえたよー。護衛屋ちゃん、探してたのはこの子でしょ?」子供を抱きかかえたまま近づいてきたパティシエは、軽いステップと共にくるりと回る。一筋一筋がふんわりと軌跡を描く銀の髪。勢い込んで頷く護衛屋の頭を撫でながら、振り返る古物屋はこの上なく不機嫌そうに凄んだ。「馬鹿。ここは大叔父の俺が格好良くどうにかする場面だろうがよ。空気読め、その頭にはケーキのスポンジでも詰まってんのか?」「わあ酷い! お礼より先に罵倒が飛んできた!」

 腕の中の子供は走り疲れたのか、諦めたのか。大人しく菓子屋の抱っこに甘んじている。どこも怪我はしていないようだ。「ありがとうございます、お菓子屋さん。これで」ようやく仕事に戻れる。この子を、あの貴族の男へ引き渡せば――護衛屋が両腕を差し伸べて子供を預かろうとした時、さっと振り返った真紅の瞳に魅入られた。開かれる眼、狭まる瞳孔。暗転。

 

  • 人形劇

 その子は死んだあの子の代わりだった。すぐさま死んでしまった最後の子供の駄目にならなかった血肉を使って、そっくりに捏ね上げられた人形だった。生まれる前から自分の末路を知っている。売られて、飼われて、削ぎ落されて、継ぎ足されて、そうして体が壊れたらおしまいだ。窓の無い部屋。人の形をしているのに、物を扱うように管理される。いたいとか、つらいとか、そんな叫びは記録されるけど無意味だった。耐久実験のひとつの数値として。精神崩壊の秒読みとして。――それ以外の世界を、知らない。

 目に飛び込んでくる実験とも拷問とも取れる光景は、再び闇に閉ざされた。両目を覆う掌の感触、温もりを帯びた懐かしい匂い。大叔父が護衛屋の目を塞いだのだ。耳元で短く紡がれた解呪《レジスト》のスペルに、幻の中を彷徨っていた意識が現実の雑踏へと戻ってくる。暫く安らかな暗がりの中で気を落ち着けよう。強く瞼を閉じてから、ゆっくりと開いた。もう、大丈夫です、ありがとう。大姪の声に古物屋は頷いて、そっと手を下ろした。支えるように寄り添っていた大叔父が離れると、再び少女は菓子屋の腕の中に居る子供と向き合った。

 この子にとっては、護送先である次の目的地も一緒なのだろう。今までと変わらない、生き地獄が続くだけだ。それは、死んでしまうまで変わらない地獄。彼女はあくまで、道中の身の安全を守るだけが仕事だ。それだけを頼まれ、受けた依頼である。この子供や、依頼主の男の事情に踏み入る道理は無い。護衛屋が高い評価を得てきたのは仕事を完璧にこなすから、仕事に私情を挟まなかったから。ゆえに成功を重ねてきた。だが、子供のおかれた立場を知った今。例えこの依頼を成し遂げたとて、彼女は、その結果を誇る事ができるだろうか?

 護衛屋は、体の横へ両腕を静かに落ち着けた。一呼吸おいて、菓子屋はイチゴの飴玉に似た赤い瞳をくるりと回した。「ボクさ、この子を探してる途中で案内屋に会ったんだよ。彼ってば色んな道を知ってるからさ、抜け道、裏道、なんでもござれ! かくれんぼにあんなのが噛んだらズルっこだよねェ? 絶対見つかりっこないもの。鬼ごっこの次はかくれんぼしようぜ、銀髪ちゃん! ボクらと一緒に隠れ家をこさえたら、悪趣味な奴らに二度と捕まったりしないんだ」呆気にとられる子供にウィンクを向けてから、菓子屋はそっと護衛屋に囁いた。「どっちにしろ謝らなきゃいけないならさ。自分の心の頷く方を選ぶのがいいよ、絶対に」

 

  • 猫の手が招く幕切れ

 翌日の新聞、大見出しに躍るのは『非道伯爵、遂に断罪』なる太文字だった。容疑者は隣町の貴族である。妖精と人間の細胞を掛け合わせ作り上げた人工生命を、何代にも亘って虐げ続けていた一族だった。古物屋は小さく鼻を鳴らし、もう興味を失って新聞を机上に放り投げる。護衛屋はあの後すぐに、護送対象の子供を見失ってしまった失敗を依頼主へ報告しに行った。自分も一緒に行くと食い下がったが、少女は背筋を伸ばしてきっぱりと断ったのである。大叔父さん、これは私の失敗なのだから、自分できちんと謝りにいかないといけません。――日暮れになって商店街へ戻ってきた大姪は、鋏屋曰く、隠し切れぬ消沈を抱えて言葉少なに帰って来たらしい。

 夜の内に、古物屋は執事を伴い隣町へ馬を駆って行った。闇夜に紛れる黒い毛並みの駿馬が風切って走る。古物屋もまた紛う事なき悪人である。悪人は同属のにおいに敏い。どこを突けばぼろを出すかも熟知しているし、自分の耳が、手が届く範囲に居る大抵の悪党の弱みは既に握っていた。幾枚の決定的な写真、酷な生体実験に嫌気が差した元関係者の肉声、それ以外にもまだまだある。証拠の蒐集には余念が無い。それを街に駐屯している騎士へ垂れ込めば、あとは一夜のうちに片がついた。

 馬鹿だねえ、ウチの身内をしょうもない事に巻き込むから。斜めに傾いだ椅子、すらりと伸ばした脚をカウンターの上に乗せると、後ろに控えていた執事が控えめな窘めの視線を寄越してくる。「いいだろう、別に。あとでこの台を拭くのはお前の仕事なんだし」まったく何がいいのかわかりません。紙切れに書いて寄越された抗議に、にやりと獣のような笑みを返す。「俺はお前の雇い主だ。雇い主が従業員に仕事を与えるのは当然だろうがよ」

 ――成る程、さようでございます。執事は感心した様子で頷いていた。御伽噺に出てくる聡明な王子のような顔をして、この使用人は結構抜けている。そういう演技をするのが巧いだけかもしれないが。鋏屋の坊主は、何が良くてこいつに入れ込んでるんだろうかね。煙草を銜えた古物屋は火を点けると、溜息とも笑みともつかぬ一息を、煙と共に吐き出した。