· 

鋏屋の杞憂

  • さようならの重み

 大人になると、さようならを言う回数が減る。いざ別離の時が来ても、またどこかでお会いしたら宜しくお願いしますとか、またいつかとか。また、という約束に足らないもしもを交わし合って別れていく。自分の裁量で家や生きる場所を決められる齢になれば、いくらでも再会の機を自ら作る事ができると知るからだろう。子供の頃は家の中、学び舎の中、通学路や遊び場所だけが世間だった。そこから離れて去っていく友人を、追いかけたいという気持ちはあっても手段が無かった。

 だから大人の俺には別れの実感が薄い、その重みを忘れてしまう。その気になればすぐ会えると思っている。寧ろ二度と会えなくなる事の方が珍しいのだと。

 これは胸騒ぎにも満たない、ただの違和感である。

 休日を共に過ごした執事さんの姿を見かけなくなって、一週間が過ぎようとしていた。

 

  • 不始末未満

 近頃、鋏屋の暖簾をくぐってくるのは、新品の刃物を求めてくる客か研ぎの依頼をしにくる常連ばかりだった。看板通り、なにもおかしな点は無い。誰も商店街の厄介事を持ってこないのだ――どうしてそれを不思議に思ってしまうのだろう。今に鮮やかな金髪の使用人が、申し訳なさそうに古物屋の言伝を持ってくるに違いないのだが。

「同志は古物屋の使いで遠方に出ていると聞いた」ペーパーナイフの研磨を依頼していた案内屋が品物を取りに来た。執事さんは元ガイドマンでもなんでも無いのだが、この男はなぜかあの人の事を同志と呼ぶのである。

 遠方へ。この間会った時はそんな素振りは見せていなかったが、案内屋は正直者である。嘘を言いはしないだろう。作業台の下から客の名前を記載した伝票つきの品物を取り出した。それを白衣のガイドマンへ上の空で手渡す。受け取った相手は礼を言おうとした一文字目の形で口を開けてから、ぽつんと声を落とした。

「鋏屋、これはこちらの頼んだものではないぞ」ペーパーナイフにしては大きすぎるそれは、魚屋から預かっている刺身包丁が入った箱だった。

 

  • 空の落ちる日

 自分が大人になったと自覚するのは、決まって自分の力ではどうにもならない事態を目の前にした時である。頭の中であれこれ考えて、これは無理だと結論づけて諦めた瞬間、俺は大人になってしまったなんて考えてしまうのだ。子供時分なら深く考えず挑みかかっていけただろうに。達成感と共に成長を噛み締めるのは少ない。無力感に苛まれるのが嫌で、せめてもの慰めとして、こう捉えられるのは大人になった証拠だろうと空っぽの虚勢を張る。

 その夜に見た夢の中で、空が落ちてきた。清々しい真っ青な空が、密室に仕掛けられた天井落としの罠のようにゆっくりと地面に迫ってくる。青空に呑み込まれた高層建造物は巨人に食べられたみたいな有様で無造作に消えていった。日常生活において空が落ちてくる心配などする必要は無い。そんな事は絶対に起こらないからじゃない。世の中に絶対は存在しない。この空が落ちてきたら、俺達にできる事など何一つ存在しないから、考えるだけ無駄なのだ。

 何もできない。陰影の存在しないのっぺりとした夢の世界で、鋏屋の軒先から出た俺は大地に向かって降下してくる青い虚空と対面する。紛糾する薄っぺらい悲鳴に忍んで、小さな笑い声が潜んでいた。視線を周囲に巡らせる。三軒ほど離れた場所に執事さんが立っていた。この辺りでは珍しいふわふわとした金髪を揺らし、その人は涙を流しながら嗚咽の代わりに笑みを漏らしている。いつもは翡翠色の瞳が、泣き腫らしているせいか真っ赤に見えた。

 声をかけてみたが反応らしいものは得られない。執事さんはその内に背を向けて、とぼとぼと歩き出す。追いかけなければいけないのに、躊躇してしまった。俺にできる事なんてあるのか? きっと、無い。友の事情を何も知らない。どんな気持ちでこの終末を見つめていたのかも、どうして泣いているのかも。知っていたとしても、他人ができる手助けは限られていて――ああ馬鹿だ、なんて馬鹿なんだそんな当たり前! できる、できないで全ての行動を決めるな。したいか、したくないかじゃないのか。泣いている友人へ駆け寄るのに理由なんか要るもんか。大きく息を吸い込んで、

 

  • 大人の抵抗

 目が覚めた。

 布団を跳ねのけて飛び起きる。時計も確認せず、寝間着の浴衣に黒い羽織を着込んだだけで部屋を出た。つっかけた下駄の鼻緒に指が上手く入らなくて転びそうになった。勝手口を抜けて往来に足を踏み出す。外はまだ夜中だった。濃紺の夜空と闇に浸った地上の境界は限りなく曖昧だが、なにも異常は起きていない。人気のない街路を行く背中をみつける。街灯の下を歩く金色の髪、漆黒の燕尾服。

 執事さん。声をあげて走り出す。夢の中の相手は泣いていた。しかし、それは所詮夢の話であって、友人はいつも通りだった。曇りひとつ無い翡翠の双眸をまたたかせて、驚いている。遂にはどうかなさいましたかと心配までされてしまった。

 大人になった俺は、さようならを軽んじている。自らの人生くらい自由に操縦できると思っていた。誰かとの出会いも別離もこの手で選べるのだと。そうじゃない。本当の別れは、前触れなくやってくる。心の準備をする猶予も無く、断頭台の刃にも似た非情さで縁を断ち切るのだ。もう一度会える確率の方が高いせいで忘れてしまう、世の中には絶対なんて無いのに。何か言おう、何から言おう、夢中に片脚をまだ突っ込んで、寝癖のついた頭をしている俺を待ってくれている友に。「執事さん」

 

  • カーテンコール

「――それで、鋏屋の所へは寄ってきたのか?」

 夜明け近く。執事は古物屋の店へ戻ってくると、雇い主の問いに頷いた。鋏屋が自分の事を案じてくれていると出先で知らされたので、帰りの馬車に揺られながら無事に戻った旨を一筆したためた。まさかそれを郵便受けへ入れに行く道中で、鋏屋本人に会えるとは思わなかったが。煙草をふかしている古物屋にはまだ委細を語ってはいないが、相手は全て承知している様子である。

 そうでなければ、ぽろぽろと涙を流しながら帰ってきた従者を前に、これほど悠然と構えられはしないだろう。後から後から溢れてくる落涙を無言で拭いながら、執事は一礼をして与えられている自室へさがっていく。鋏屋にかけられた言葉が何度も思い返された。「また会えてよかった」と、少し大げさなだけの出迎えに、どうしてこんなに心を揺さぶられるのだろう。

 きっと今回の使いの仕事が物騒なもので、無事には済まなかったかもしれない緊張が、あの瞬間に解けたせいだ。大層な理由なんて無い、大仰な運命なんて無い。だからいつまでも、何度でも当たり前に響き続ける。空洞が広ければ広いほど、小石が跳ねただけでも大きく反響するものだ。従順な使用人という役割しか演じてこなかった執事は、自分だけに向けられた本音《アドリブ》に胸を騒がせながら朝を迎える。