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鋏屋の欠落

  • 記憶喪失

 古物屋は寝不足だった。元から睡眠が少なくとも活動に支障はないのだが、ここ数日は魔女の家に攫われた鋏屋の救出計画で慌ただしかった。寝る間を惜しんで指揮を執っていたのである。早足の革靴は鋏屋の店へ辿り着いた。

 助け出した直後、意識が混濁しているのか話しかけてもろくな応答は得られず、その後はずっと眠っていたようだ。看護のため付き添わせた執事も、昼夜問わずあの青年の面倒を見ているのだろう。他の商店街仲間も入れ代わり立ち代わり、若き五代目鋏屋の様子を窺いに来ていた。

 戸を開けて店の奥へ上がり込む。すると間も無く、ひょこりと姿を見せた人影と行き当たった。驚いてのけぞるが、相手はどうやら鋏屋本人であるらしい。

 昨晩訪問した時には、まだ悪夢にうなされていたというのに。もう起き上がれるくらいに回復したのか。安堵に眉間の皺が薄らぐのを感じながら、なにか声を掛けてやろうと口を開く。それより先に、鋏屋は子供のように目を丸めながら問い掛けてきた。「あの、どちらさまでしょうか?」

 

  • 自己紹介

 古物屋は老獪だった。長く在り続けた化け猫であり、商店街の仕切り役であり、つまり滅多な事では動揺しない。充血した金の瞳で胡散臭そうにねめつけてから、成る程なと低い声で呟いた。「お前がいじられたのは外側じゃなくて、内側だったかよ」

 どの程度記憶に混乱があるのか。少なくとも、出くわした古物屋を見て『どちら様か』と尋ねている所から、ここが彼自身の家である自覚はあるらしい。この家も憶えておらず、かつそこで見知らぬ人間を見つけたらまず、家人であると信じるだろう。だから、どちら様と問うのではなく、ここはどなたのお宅でしょうかと尋ねるに違いない。

「俺は古物屋だ」先んじてそう名乗ってやると、彼はすぐに、自分は鋏屋を営んでいる身の上であると返す。「しかし、それ以外の記憶がどうにも曖昧で」浴衣の袖を手繰りながら、所在無さそうに視線を彷徨わせた。まあお前は数日前から調子を崩しているので、そのせいもあるだろうと青年の肩を叩く。体力がまだ戻り切っていないのだろう、もう少し休んだらましになるさ。

 そう言葉をかけながら寝床へ帰すと、入れ替わりに廊下の奥から俯き加減で執事がやってきた。無言で店先を顎で示すと、従者は顔を上げて頷く。使用人から齎された話は大方、古物屋の予期していた通りだった。鋏屋は記憶を失っている。

 

  • 青から黒へ

 古物屋は帰路についていた。騒動の元凶たる魔女達の全貌を知る者は皆無である。拠点としているお菓子の家も、何年もかけてようやく調べ上げたのだ。奇襲を受けた奴らは近々家の場所を変えるだろう。それなら何度だって探してやる。あぶりだすには一朝一夕とはいかないが、鋏屋を元に戻すため最も手っ取り早いのは、こんな風に彼を捻じ曲げてしまった魔女に治させる事だ。

 厄介事を斡旋していた当人として、古物屋には責任の一端がある。鋏屋の手際の良さに頼り過ぎた、方々で評判になった結果として厄介な集団の興味を惹いてしまった。善悪で語るなら紛れもなく魔女達が悪いのだが、白黒で語るなら古物屋は全くのシロではないのだ。

 この不始末を片付けるとしよう。

 まずは、鋏屋が目を覚ましたと医者へ伝えにいかなければ。踏み出す一歩はこれまでより大きく先へ。その道中で、向こうから黒い鞄をさげて回診にやってくる医者の姿が見えた。いやはや、ここの連中は話の早い奴が多くて助かる。