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執事の当惑

  • おはよう、執事さん

 記憶は、失われたりしない。単に情報が引き出せなくなるだけだ。器官としての老朽化か、それとも疾病などによる損傷か。だから、跡形もなく消滅する訳ではない。この世に消えて無くなるものはない。質量は一定だ。

 脳内で高らかに演説していた声は、執事の目覚めと共に消える。頬杖をついていた掌から顎がずり落ち、体勢をなんとか保とうとした所で意識が覚醒した。支えにしていた文机から離れ、後ろを振り返る。敷かれていた布団はもぬけの殻だった。そこには家主である鋏屋が眠っていたはずなのだが。

 泊まり込みでの看病を申し出たのは執事自身である。主人である古物屋からは、医師の回診もあるから様子を確かめるのは日に三度程度で構わないと言われてはいる。医療従事者でもない自分が付き添ってもできる事は無い、だからこれは自己満足である。一夜の内に鋏屋が居なくなったのが、余程衝撃的だったのだ。

 以前、遠出をした自分を夜中に出迎えた鋏屋も、こんな気分だったのだろうか。居ても立っても居られない、何に焦りを感じているかもわからない思いでいたのか。腕を伸ばし、布団に掌を置く。まだ微かに温もりが残っていたので、そう時間は経っていないだろう。傍らのジャケットを掴んで立ち上がった執事は、間も無く襖を開けた鋏屋と対面した。

 

  • ごちそうさま、鋏屋さん

「おはよう、執事さん。お腹空いてないかな? パンを温めたんだけど」手にした盆の上には、バターの匂いを立ち上らせるクロワッサンとホットミルクが載っている。それと鋏屋の顔とを交互に見比べてから、重い溜息をつくと懐から手帳を取り出した。『ご厚意、大変有難く思います。しかし貴方はまだ本調子ではないのです。どうかゆっくりお休みになっていてください』

 一旦手帳を小脇に挟むと、両手で朝食を受け取った。鋏屋はもごもごと、でも俺もお腹減ってたからと弁明をしている。何か用事があれば遠慮なく声をかけてくれて構わない事は事前に伝えてあるはずだ。例え執事が寝ていようが何だろうが、都合は一切考慮しなくて良いとも言ってある。その辺りがいまいち上手く伝達できていないらしい。

 布団の上で正座して心なしかしょんぼりしてしまった彼と向き合って、執事は両手を合わせてからパンを齧った。さくりという咀嚼音に顔を上げた鋏屋は、気遣うような優しい声音で問う。「どうかな、その。付き添ってくれるのは有難いけど、あんまり根を詰めすぎると君も倒れちゃうよ。俺も早く元気になるから、執事さんも無理しないで」

 他者を案じる余裕が生まれるくらいには回復した、という事だろうか。パンを食べ終えて真剣に見つめると、相手は照れ臭そうに笑う。そのはにかみは、あまりにも以前までの鋏屋と似ていた。いや、似ているも何も本人である。ホットミルクも飲み干すと、一式を手に立ち上がった。一度帰って身繕いをして参りますと言い置いて部屋を出る。一人になる時間が必要だ。彼にも、自分にも。食器を洗って元通りにしてから、燕尾服に袖を通し古物屋の店へ戻った。

 

  • 人の恋、獣の愛

 彼が鋏屋であるのは疑う余地もない。言動がいくら違っても、背格好やふとした時に出る癖などは以前までの彼と同じだ。だがそう思えば思うほど分からなくなる。執事は確かに鋏屋を特別視し始めていた。一体どこに惹かれたのだろう? 記憶が無いだけで、この関心は無くなってしまうのだろうか。

「例えばの話しだが。お前は俺にキスを迫られたら嬉しいか?」雇い主の古物屋は常に極論を問いかけてくる。暫く悩んで、嬉しいと答えた方が宜しいのでしょうかと問い返すと、吸いさしの煙草を向けられて眉根を寄せられた。「それだよ、そうじゃないんだよ。恋ってのは、いいか、相手がどう思うから自分もこうするってのじゃないのさ。自分がこうしたい。自分は恋しているから、相手にも良く思って貰いたい。自分の欲求が先に来る」相談には律儀に乗ってくれるのだが、どうも毎回不機嫌そうな態度で応じてくるので、彼に悩み事を打ち明ける者は一握りだ。今回も、動物に恋愛ごとなんて面倒を考えさせるなと唇をひん曲げる。言いながらも、熱心に後を続けた。

「要はお前がどうしたいかだよ。お前が相手を好きでいたいって思ったら、それはきっと恋だ。キスされて嬉しいかどうかっていうより、自分が寧ろ先にやっちまいたいと思うくらいだったら完璧だね」どうも肉体言語に頼り過ぎのきらいがあるように思える。そこを控えめに指摘すると、だって俺は動物だもんよと化け猫は開き直った。「恋も、友情も、家族への情も。結局は愛に辿り着くための入り口に過ぎないと思うね。一方通行じゃないし、どこへでも通じているもんだから、逆に愛から辿っていく場所もあるかもしれんが。動物だったらその辺りは単純なんだがな。人間ってのはどうも、物事を複雑にしたがるきらいがある」

 どこを好きになったかなんて一番どうでもいいね。古物屋は椅子を斜めにして欠伸まじりに語った。「理由なんか後からいくらでも考えつく。気に入った所が見かけでも、行動原理でも、匂いでも手触りでも何でもいいじゃねえか。けど、一番最初にそう思った衝動や感情だけは、思いつきで生まれるものじゃ無い。一目見た時に散る火花でも、嘘から出た誠でも、神経に電気が奔った瞬間から本物さね。本物だけが真実だろう」日頃リアリストを気取る厭世家にしては随分ロマンのある話である。黄金の瞳を猫のように眇めて、雇い主は白い牙を見せて笑った。「そりゃそうだ。俺にこの話を聞かせてくれた奴は、救いようのないロマンチストだったからな」