ブログカテゴリ:butler



 通りの向こうを眠たそうな黒猫が歩いていく。  菓子屋の店先から焼き立てのクッキーの匂いが漂ってきた。  鋏屋の店先からは刃物を研ぐ音が聞こえて、案内屋の窓口が静かに開く。...
 怒られるのを病的に恐れる子供だったんだ。菓子屋は焼き上がったジンジャーマンのビスケットを並べながら歌っている。白い大皿にひとりずつ整列していく人型のお菓子。ふっふっふ、夢見がちなパティシエはご機嫌だった。...
 ありふれた悪夢の中で目覚めた。そこはよくある廃墟で、曇った窓硝子の向こう側に止まぬ雨が叩きつけている。執事は体を起こし、寝転がっていたベッドから立ち上がった。足元を鼠が忙しなく駆けて行ったのがはっきり見える。光源はどこだ。光へ吸い寄せられた視線は、ベッドサイドに燭台をみつけた。真っ赤な蝋燭が一本だけ立てられた小さな灯りを手に取ると、それを翳して出入り口である扉を探す。  小さなゲストルームに相応しい瀟洒な扉は半分ほど開いていた。その向こうから啜り泣く女性の声が漏れ聞こえてくる。段々と近くなる。反射的に身を屈めてサイドテーブルへ身を潜めた。頼りない炎に手を翳し、息を殺す。やがて戸の隙間から室内に伸びてきた女性の影には、頭が無かった。  ――まだ嗚咽は聞こえてくるが、すり足の気配と共にそれは遠ざかって行った。限界まで早まりつつあった鼓動を宥めるように、火を守っていた手で胸を押さえる。改めて姿勢を正し、部屋を出ようと歩き出した所で、また別の足音が聞こえてきた。咄嗟に身構えたが、床を踏む規律正しい靴音には聞き覚えがある。迷わずこの部屋に入ってきたのは、纏う白い制服も眩しい案内屋だった。  そういえばどこへでも案内するのが彼の信条だったか。落ち着き払った青い瞳がこちらを捉えると、生真面目に問いかけてくる。道がわからないなら先導するが、助けは必要だろうかと。執事は少々大袈裟なリアクションで指を組み合わせると、偶然おりてきた蜘蛛の糸に縋る思いで助力を頼んだ。すると案内屋は珍しく小さな忍び笑いを漏らし頷いてくれた。それを耳に入れてようやく気づく。笑い声と泣き声は似ている――だからさっきの女性は泣いていたのではなくて、あれは多分、笑い声だったのだなと。
「なあ、執事さん。嘘でもいいから、最期に俺と出会えて幸せだったと言ってくれないか」 『もちろん。私は貴方と出会えて幸せだった。それは嘘などではな 「――ああ神様、」 「私の人生からこの人を奪った世界は、さぞや美しくて価値のあるものなのでしょうね」
 同志、と呼ばれる声に振り向いた。身の丈を超える旗を手に、肩で風を切って歩いてくる案内屋の姿はいつもの事ながら目立っている。観光地のガイドをするのが主たる仕事なのだから、人目を引く格好なのは道理なのだが。それ以上に、往来の人々から頭一つ分どころか、二つ分飛びぬけている体格の良さも衆目を集める要因だろう。自分は執事であって同志ではないのですよと何度説明しても、結局彼は首を傾げるばかりだったので、最近は訂正を諦めている。 「同志は古物屋へ向かう所か? 良ければ自分も同行したいのだが」  断る理由は特に無い。頷いて先導を促したが、彼は微笑むと隣合って歩きたいと申し出て来た。  仕事中はこうして誰かと並んで景色を楽しむ事が無いのだと。成る程、確かに彼は常に先導者である。こんな風に、野の花の名前を言い当て合ったり、流れる雲の形が何に似ているか言い合う機会も無いのだろう。聞き上手の案内屋の相槌に誘われて、道中話の種が尽きる事はなかった。
 貴方と見た暮れの日を覚えている。天体が浮かぶ空間の境を融かしていくような橙色の、蕩ける彩を。店じまいの札を出す彼の背中越しに、戸枠に切り取られて目に飛び込んだ鮮烈な夕暮れ。網膜が焼かれるようだったけれど、目が離せなかったのは、黒髪の隙間から見えた鋏屋さの耳朶が淡く染まっているように感じたからだ。ついさっき告げられた言葉が鼓膜を未だに震わせ続けている気がする。  ――どんな感情でもいいから、執事さんが思ったように振る舞って欲しい。  他人に抱く感情など、相手がどう望むかによってだけで変えていた。好けと言われればそうして、厭えと言われればそうしていた。だからこれは、生まれて初めて与えられた選択の余地。こうしろと命令されるのではなく、慕うのも拒むのも、■したいと思うのも己の自由なのだ。  そんな自由なんて今まで無かったから。迷っていた帰り道を、手を引いて一緒に辿ってくれる人が見つかったような。もう心細い思いをしなくていいのだという漠然とした安堵。振り返った鋏屋が驚いて、どうして泣いているのかと尋ねてくるまで、落涙にすら気づかないくらいに。嬉しかった、とても。忍び寄る冷たい夜の気配すら、どうとも思わない。わたしはもう、独りではないのだ。
姫:人生のおしまいは、折り畳みベッドがバシンと閉じてしまうみたいだ。 臣:『どうか寝心地のいいものでありますように』
「執事さん、居るかい」  部屋の中央に人ひとり分のなだらかな山を形成した毛布から、もぞりと手が出てきた。握ったメモには一言、留守ですの文字。  模範的な居留守であった。困った、彼に用事があったというのに。寒風に冷えた袖を擦って入室すると、山の傍らに腰を下ろした。じゃあ帰ってくるまでここで待たせて貰おうか。...
 手を繋ぐもっともらしい理由を考えました。最初は冗談かと思ったが、執事さんは真面目だ。真剣な顔で白紙のページに手を握り合う棒人間を描き始めた。...
 鋏の切れ味が落ちたら、アルミホイルを切るといい。握り鋏は噛み合わせが少しでもずれると切れなくなるから、糸切狭は糸以外を切らない事。  鉄製なら定期的に油を差して手入れをする。ステンレス製は水には強いが油を嫌うから、特に刃には素手で触れないこと。いずれにせよ、人体の塩は錆の原因なので、肌が触れたら綺麗に清めなさい。...

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