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アカリと人斬り

 月の冴えた夜だった。

 降り注ぐ光の冷たさか、あるいは通り過ぎた夜風の冷たさか。口の中から飛び出した自分のくしゃみの音で、アカリはぱっちりと目を覚ます。

「……カガミ?」

 寝ぼけ眼を擦りながら体を起こすと、異常はすぐに知れた。そこはベッドの上でもなければ、そもそも家の中ですらないのだ。ざり、と掌を掻く砂や小石を呆然と見下ろす。吹き渡る風が柳の木立を抜けていった。両側には水田、遠目には提灯と思しき灯りが見える。

 まるで、いつか絵本で読んだ極東の世界だ。それは遠い、遠い異国であるはずなのに。

「ゆめ、だよね」

 立ち上がると、黒いワンピースがすっかり白く汚れているのが暗がりでもわかった。今更、酷く心細くなって祈るように両手で頬を抓み、思いっきり引っ張ってみる。一度で足りないなら、二度。二度でも目覚めないなら三度。

 さりとて痛いばかりで一向に目覚める気配がない。醒めない悪夢ほど恐ろしいものがあろうか。ぐるぐると目を回しながら道の端へ寄ると、こっそり木陰にしゃがんで頭を抱える。これは夢、これは夢、だから早く目を開けなくっちゃ、帰ってこれなくなったら――帰れなくなったら?

「……どうしよう」

 お腹が減ってもどこでご飯を食べたらいいのか。眠くなったらどこに寝床があるだろう。まさか再び道端で寝こける訳にもいくまい。祈りを込めてもう一度強く念じてみるが、そんな少女の無力を嘲笑うように景色は変化を見せなかった。

 

 否、変わった事はあった。

 ざり、ざりと。足を引きずるような音を立てて道の奥、街灯りとは正反対の無明より何かがやってきた。

 もしや助けを求めるチャンスかもしれないと飛び出しかけたものの、アカリはぴたりと動きを止める。じっと、耳を澄ませる。聞けば聞くほど、物音は不審極まりなかった。そのうえ、鼻腔を掠めたのは堪え難い腐臭。

 ああ、あんまりに月影が明るいものだから――桃色のどんぐり眼を見開いて、少女は小さく後ずさった。

 見てはいけないものまで、見えてしまう。

 やがて確かな輪郭を結び歩み来たのは、正しく屍だった。歩く死体。ぱくりと割れた頭より垂れ下がった白い脳漿。飛び散る赤茶と灰色によって、長い髪は汚らしく固まっている。両目は白い部分が濁り、黒い部分は逆に色が薄くなっていた。死んだ魚を思わせる、どこを見ているのか判然としない目。

 だらりと垂れた腕の片方には抜き身の刀を握りしめている。本来ならば美しい白銀をしているはずの刀身には、べっとりと何かが付着していた。ともあれ、凶器を汚すものといえば候補は限られている。あれは、血だ。

 口元を押さえて息を殺して。何とか気づかれぬよう、この場をやり過ごそうとする。不幸中の幸いとでもいうべきか、相手はこちらには目もくれずまっすぐ前へと顔を向けて前進していた。周囲に誰かが息を潜めているなど、そんな発想が生まれる知性すら失われているのだろう。いよいよ目前、頼りない柳の木を挟んですぐそこを化け物が通り過ぎようとした、その時だった。

「隠れ鬼か? 餓鬼がこんな時間に出歩くモンじゃねえぞ」

 背後より肩へ置かれた手。まったく何の前触れもない。いつから、そもそもどこから湧いて出てきたのか。辛うじて悲鳴はあげなかったものの、勢いよく振り返った少女の視線の先には見慣れぬ青年の姿がある。さらりと黒い着流しを纏い、担いだ日本刀でとんとんと呑気に肩を叩いていた。朱塗りの鞘は優美な曲線を描き、それが彼の肩の上で揺れるものだから、なんだか気紛れな猫の尾のようだ。そんな連想をしてしまったのも、相手の黒髪が酷く柔らかそうな毛並みで、かつ爛々と輝く双眸が黄金色をしていたせいである。黒ずくめに金の目。まるっきり、猫だ。

 対して少女は返答に相応しい言葉を見つけられずにいる。はくはく、と口を無意味に開け閉めしている背後で、足音が、止まったのだ。

 満月にも劣らぬ金色を輝かせて、流浪の侍が化け物を検めた。片手間にぐいとアカリの肩を己が背後へ押しやると、羽でも扱うような軽さで抜刀した。

「退いとけ。こいつは俺が片付ける」

 むんずと掴んだ鞘は左に、月光を映して光の粒を零す刀は右に。落ち武者の成れ果てもまた、かたかた骨を鳴らしながら錆びた刃を構えるべく緩慢に腕を上げる。

 されど。

「遅えよ」

 互いに準備が整うのを待つ青年ではなかった。がら空きとなっていた胴体に、履き古した草履が沈む。腐った水の溜まった臓腑の潰れる音は、太った蛙が踏み潰される断末魔にもよく似ていた。逆流した、血とも胃液ともつかぬそれが落ち武者の口から噴出する。びちゃりと、顔の片側にそれを浴びる侍に躊躇はない。アカリはといえば、もう吐き気を堪えるのに精いっぱいだったというのに。

 勢いよく振り上げた刃が、容赦なく空気を裂き閃いた。紙切れを切るのにも、もう少し労力が要るはずだ。何の抵抗もなく袈裟切りにされた落ち武者は、踏ん張った下半身の上から滑り落ちる上半身に悲鳴すら上げない。その内に体は地面に背を打ち、残された脚は二歩ほど進んでばったり倒れた。

 事が終わったのを見て、ぺたんと今更に腰が抜ける。夜は再び静寂を取り戻しつつあり、ここには何の脅威も――否。アカリは吸い寄せられるように、抜き身の刀を揺らしている青年へ顔を向けた。

「百鬼夜行のはぐれにしちゃァ、骨のねェ奴だったな。ただの亡者だったか。大方、てめえが死んだ事にも気づいてなかったんだろうよ」

 吐き捨てて踵を返し、ずんずんとアカリの方へ近づいて来た。慌てて後ずさろうとするも遅い。鞘を放り捨て、恐るべき速度で伸びてきた腕が、あっという間に彼女の首根っこを掴み持ち上げてしまった。

「……それより、お前だ」

「あ、う……」

「妙な気を纏いやがって。霊狐の類か、神霊の落ちぶれか? お前の気配は……安心する。この感覚は……」

 そこで、剣呑な双眸が柔らかに細くなる。なんとも親しげな愛着をちらちかせた表情に疑問を投げかけようとするも、喉に食い込んだ服の襟が邪魔をしている。酸欠。くらりと眩暈が起こりかけたところで、唐突に青年は手を離し退いた。あわや、地面に打ち付けられるかと思った矮躯はまた別の腕に抱き留められた。

 咽ながら顔を上げると、目に飛び込んできた黒いヘルメットにあっと声が上がる。この悪夢で一番会いたかった家族の到来に感極まり、なりふり構わず抱きついた。

「カガミ……!」

「おう、アカリさん。危ないとこだったな」

 ほんとにほんとに、そうだ。危うく息が止まりかけた。もう会えないかと、思った。遅れてやってきた戦慄にぶるりと震えると、カガミは一層強く抱きしめてくれる。

「……さて。あんたは何だ? ジャパニーズサムライらしいが……完全に、バケモノだよな?」

 ヘルメット越しに聞こえる誰何はぞっとするほど冷たかった。そんな問いかけにも、青年侍はどこ吹く風。狼のような笑みを浮かべて首を傾げる。

「俺を言えた義理かよ、面なし野郎。お前だって化け物だ」

「っ、カガミは、ただのばけものじゃないもん!」

 謝ってよと続けそうになった口が、他ならぬカガミによって塞がれた。どうどうと笑われれば、それ以上は言えない。

「まあいいさ。サムライとは名ばかりの殺人鬼。殺し過ぎて、人の形をしてるのに、人じゃなくなったモノなんてどうだっていいや。俺はここに家族を連れ戻しにきただけだし?」

「……その餓鬼は、てめェの家族か」

「そう。だから、お前にはやれない」

 そこで、ぶらりと刀を持ったままだった青年は初めて、傷ついたような顔をした。

「……そいつの気があると、ほんの一瞬だが俺ァまともになれた気がした。殺人の業を、消してくれる力がある」

「ああ、そうかもね。アカリはそういう力を持ってる。魔法を無効化し、けだものの王子様を人間という現実に戻してくれるんだ」

「――てめェを斬ってでも奪うと言ったら?」

 一度引いた波が再び、倍の高さをもって迫るような。波濤の如き殺気を負って一歩踏み出す人斬りに、無貌の青年は緩やかに首を振る。

「そんな事はさせない」

 ぴたり。侍の足が止まる。

「二度と、この小さな女の子に、家族を失わせたりなんかしない」

 無限にも思える、時間が過ぎて。

 途端に一切の興味をなくしたと言わんばかりに、黒猫はくるりと背を向けて、どうとその場に胡坐をかいた。行けよ、とぶっきらぼうな声が飛ぶ。

「俺の気が変わらん内に、どこへなりと行っちまえ。次に会ったらお前を斬るかもわからん。だから今は、さっさと消えていなくなれ」

 突き放すような雑言が皮切りとなって、悪夢は途端に輪郭をなくしぼやけてゆく。瞼が鉛のように重い。沈み込む意識に抗えぬまま、目覚めへと向かうアカリの耳へ最後に届いた福音は。

 

「……次はいい夢を見るんだぞ」

 

 果たして、誰が紡いだものだったか。