空想都市

「 永劫だれかの掌の上 」

  • 主に空想都市を舞台とした一連の文章作品
  • 四行小説 / 会話文 / 1000文字前後~の短編小説、群像劇など
  • 仕えていた主人を失った執事が行く、新たな雇い主を探すついでの旅
  • 子供の目に届かず、大人に忘れ去られた絵本の中。自然豊かな土地に風光明媚なる街として多方より観光客を迎える、ここはとある空想都市

執事

(立ち絵制作:トーチ様)

 ご子息は川遊びに、お嬢様は草摘みに。他所の子供達は貝拾いに行ったきり戻らない。残された人達は着物と一緒に畳まれてしまった。

 主人が隠れられてこちら、お屋敷の中はすっかり静かになった。

 英雄は星になり、王は妖精の島へ渡り、民は目覚めぬ眠りへ落ちる。

 幾つ棺の蓋を打った事か。それでも、この執事の手はまだ汚れていない。

 

◆名前:クヴァール・エーエシャイドゥング・ダーミット(Qual・Ehescheidung・Damit)

◆通称:キユウ(もしくは単に執事とも)

◆身長:180cm ◆誕生日:12月12日

◆性別:不明(振る舞いは男性寄り) ◆年齢:不詳(外見年齢20代半ば)

◆ある事情から、他者とコミュニケーションを取る際は主に筆談を用いる

執事の独唱

  • 荘厳に

 血のような夕暮れだ、と執事は思った。雑居ビルの屋上に柵は無い。コンクリートの縁に腰かけて子供のように足をぶらつかせている。陽に透かした自分の掌も同じ色に浸った。少女にも似た無邪気さで唇へ弧を浮かべながら、切望の表情は破滅的な願望に取りつかれた悲劇の男にも似ている。だが執事はそのどちらでもなかった。

 短く切り揃えた金髪も、ふわふわとした癖毛のために柔和な印象を与える。すらりと均等の取れた体つきは、しなやかではあるが柔らかさに欠ける。男か、女か。どちらかに当てはめて見ようとすると、どこかでずれる。違和感が付き纏う。ただひとつ、周囲に張り巡らせた鋭い注意だけは、研ぎすまされた刃を明確に想起させた。

 高所への恐怖など微塵も無い動作で、影のように立つ。懐から取り出したのは指揮棒ほどの刃渡りを持つナイフ。

 沈みゆく夕陽を背にして、執事は一枚の影絵になった。屋上の出入り口に向かい進む。扉はついさっきまで誰かが覗いていたかのように隙間が開いたまま、きいきいと耳障りな音で軋んでいた。

 

  • 最初に戻る

 街は幾度も夕方を繰り返す。陽が沈むと間も無く地平線の低い場所に太陽が戻り、また沈む。気が遠くなるほど煮詰められた時間は、人々の意識をも曖昧にしていた。せっかく訪れた旅行客達も宿の部屋に篭って、終わらぬ惰眠を貪り続けている。「これじゃ商売あがったりだ」この旅行シーズン、書き入れ時を逃す訳にはいかない。商店街を取り仕切る古物屋は、不機嫌そうにパイプを噛んでいた。「大方、ろくでもないクソガキが悪戯してやがるんだろう。俺は目を覚まさない姪っこの世話を焼きたい。この始末はお前がつけてきてくれ」

 イエス、サー。おどけて敬礼をした執事をぎろりと睨む黄金の瞳。どうやらこの冗談はお気に召さなかったと察すると、改めて利き手を胸に当てて畏まった。儲け時を逃しそうになる危機と、目の中に入れても痛くないくらい可愛がっている大姪に影響が出ているが同時に起こっているのだ。古物屋としては心底面白くないのに違いない。

 主人の命令を受けて、執事は永遠の夕刻に彷徨い出たのだった。情報収集をしようにも、現在まともに動けるのは人ならざる者達ばかりであり、固定された時刻の干渉を受けない猛者は、原因も何もさっぱり見当がつかないときている。ビルの非常階段を跳ぶように駆け下りてみたが、盗み見をしていた人物は相当逃げ足が速いらしい。既に気配も掻き消え、見失ってしまった。

 さて。執事はナイフの柄を暗殺者のように銜えると、懐から一冊の手帳を取り出した。ぱらぱらとページを捲り、これまでの経緯を見直す。翡翠の瞳が夕陽を受けてちかり、と輝いた。確認を終えるとナイフを再び手にして迷わず歩き出した。向かうのは商店街の玄関。ここで観光客向けにガイドマンをしている、案内屋の窓口がある方へと。

 

  • 徐々に強く

 案内屋は執事の来訪を待ち構えるように、鼓笛隊のものに似た純白の衣装を身に纏って佇んでいた。かつて騎士として数々の武勲を立てた青年は、久しく見ていない青空と同じ色の瞳を向けてくる。生きながらに、否、生きていたがゆえに、人間の枠を逸脱してしまった歪な聖者。「そろそろ来る頃合いだと思っていた。同志、俺に先導できる道はあるだろうか?」

 ナイフを手にした燕尾服はゆっくりと頷き、今しも沈みそうな太陽を指さした。唇の動きだけで告げる。あの陽が沈む場所へ。

 高所からの観察でわかった事がある。奇妙な運行を始めた太陽は、必ずしも同じ方角へ沈む訳では無いらしい。通常では有り得ないだろう。今の所はこの怪異以上にめぼしい手がかりも無い。『ミスターガイドマン。私と一緒に、夕陽へ向かって走って頂けますか?』手帳に走り書きされた文字は、末尾にスマイルマークまで添えられている。普段は滅多に表情を崩さない寡黙な男は、それを見て唇を緩めた。

「虹の麓には宝が埋まっているという。ならば、陽の下には何があるのだろうか」確かめに行こう、薄情な光が地平線へ姿を隠す前に。

 

  • ここで終わり

 黒い旗を目印に、執事は先ゆく案内屋を追った。ガイドマンの足取りには確信がある。丸い星の上でいくら走っても、天の糸により宙づりにされた太陽へ近づける訳は無いが、細い路地を通り抜ける毎に安っぽい遠近感で燃える天体へ近づいていく。

 遂に二人は辿り着いた空き地で太陽の真下に来た。それは近くで見ると一羽の巨大な鳥だった。赤々と燃える体を丸めて、その巨体に見合う止まり木で微睡んでいる。傍には大量の粟が散乱していた。

 ここにも、誰かが慌てて逃げ出した痕跡。しかしやはり何者かという目星はつかない。眠りこけている焔の鳥が不意に、ぐらりと傾いて地面へ落下を始めた。見上げていた執事らは反射的に距離を取る。墜落と同時に火の粉となって撒き散らされた羽をナイフや旗で切り払いながら、束の間、燃え尽きた怪鳥を見守った。だが、すぐに灰の中から同じ大きさの鳥が生じて――恐らくは、その繰り返しなのだろう。

 目覚めた鳥は別の止まり木を目指して羽ばたこうとしていた。みすみす逃すのも惜しいが、果たしてどうやって阻止したものか。太陽が昇るのを止められる者などいるのか。身構える執事の肩に、案内屋が静かに手を置いた。無謀な追撃を思いとどまらせるような仕草の意図を問うように振り返った先に。無骨な肉切包丁を片手に、酔いどれの酒屋が姿を見せた。「よう、坊主ども。特大の焼き鳥が食い放題と聞いて来たんだが、会場はここで合ってるかい?」

 

  • 歩く速度で

 瞬く間に捌かれ調理された焔の鳥は、酒屋の赤鬼が残らず食べてしまった。ところで自らの纏う炎で焼かれながら退場する心境とはどんなものであろう。無念に違いないと考えるのは所詮人が抱く感傷だ。さしたる抵抗もせず、塩胡椒で美味しく頂かれてしまった鳥本人《ちょうほんにん》は案外なにも感じていなかったのかもしれない。

 執事は鋏屋の店を訪れている。眩いほどの青空が窓硝子を通って、店内にも惜しみない明るさを齎していた。随分長いこと眠り込んでいたようだよ、と鋏屋は帳場の椅子に収まりながら未だ目が覚め切っていない様子だ。

 いったい自分達が夢の世界へ逃げ込んでいる間、現実ではどんな冒険があったのか。

 寝しなに物語をせがむような鋏屋の問いに、執事はのんびりと微笑んで不要な裏紙にそっと書き付けた。なんて事はない、本当に大した話ではございません。『起きていても、まるで夢のように不可思議な出来事と行き当たっただけなのです』

案内屋の青天

  • 眠り姫

 天蓋からさがる布が安寧を守る広々とした寝台に、護衛屋の少女が横たわっている。穏やかな寝息、安らかな顔。傍へ歩み寄った案内屋はその静寂を尊ぶように眺めている。硝子の棺に収まった白雪姫を見守るように。

 目を伏せて右の手袋を外した。平穏の色を溶かし、静寂の絵筆が彩った柔らかな頬へ触れようと。――窓の向こうで鳩の群れが飛び立つ。黒猫の影が裏通りへ走り込む。護衛屋の琥珀をした瞳が開かれた。

 彼女の目が映したのは、寝台を閉ざすように囲む虫除けの柔らかな布である。薄地の綿であつらえられた白い境は、内と外を隔てて永劫晴れぬ霧を立ち込めさせていた。その切れ目が素早く捲られて誰かが出て行ったのを見逃さなかった。ぼんやりとした人影に、どなたですかと問う。ここはどこでしょうか、とも。

 肩越しに横顔を晒した相手は低く答えた。「どうか何も聞かず、今暫くここで待っていて欲しい。じきに全て始末がつく」靴音を響かせ人影は去っていく。起き上がった少女は、不連続に襲う眠気の波間から泡沫のような声で、案内屋の名を呼んだ。

 

  • 鬼知らず

 古物屋が唐突に姿を消して今日で半月になる。失踪自体は住み込みで雇われている執事によって早期に発覚したのだが、その足取りを掴むのに難儀していた。「で、みつかったんだろ?」酒屋は相変わらず平屋の私室でごろりと寝転がりながら来客へ問う。正座をしている若者が二人。黒い装束の鋏屋が対面しており、部屋の隅には黒い燕尾服の執事が控えていた。

 そう、古物屋はみつかった。街外れの水車小屋で、体だけが。それも、臼と杵に絶えず打ちつけられた悲惨な状態であった。首から上はまだ行方不明。「まァ、猫は死期を悟ると姿を消すって、昔から言うさねえ」首を切り離して、体を餅つきされた状態でみつかるのも、死期を悟った猫の特徴だろうか? 酒屋はぴたりと軽口を慎んだ。鋏屋は身を乗り出す。

「酒屋さん。貴方は古物屋さんと一番古い付きあいだろう。些細な事でもいいから、何か知っていたら教えて貰えないかな」姿が見えないのは古物屋だけではない。彼の大姪にあたる、護衛屋の少女もぱったり消息不明なのだ。

「……鋏屋の坊主よォ。お前さん、いつから探偵になったんだい? 鋏屋ってのは鋏を売るだけじゃあないのかい」なぜ他人事であると捨て置けぬ。眇められた剣呑な瞳に射抜かれてたじろぐも、鋏屋は逃げを選ばなかった。真っ向から応じる。「これは鋏屋の仕事の内じゃない。俺は、俺個人の私情で、世話を焼いてくれた人達を探しているだけだよ」商売仲間は身内同然である。以前だって、古物屋は体を張って鋏屋の窮地に手を打ってくれたのだ。恩は互いの間を行き来する。押しつけられたり、無理やり着せられたり、売られたりもするものだ。今回は自分が、恩を返す番であろう。

 

  • 難航

 結局、酒屋はその鋏屋の返答自体は是としてくれたのだが、肝心の事情は語ってくれなかった。知らぬ存ぜぬの一点張りである。その内に寝そべったままいびきをかき始めたので、起こさぬようそっと執事を伴い退却してきたのである。鋏屋は懐から一冊の帳面を取り出し、ちびた鉛筆で酒屋の名前に横線を引いた。これであと話を聞いていないのは、案内屋だけか。

 なぜ彼が後回しになってしまったのか、観光客向けにガイドをしている仕事柄、いつもならすぐ捕まる相手なのに。ここ最近は案内窓口へ行っても大抵席を外しており、市街ですれ違っても仕事中であり、落ち着いて話を聞ける状態ではなかった。避けられているのだろうか。本業の合間に人探しへ乗り出しているため、あてられる時間はどうしても決まっている。それを見透かされて、接触を封じられているのか。

 考えすぎだ。深く溜息をついて帳面を仕舞う。物静かな執事には今日も随分長い時間付き合わせてしまった。謝罪と礼を伝えると小さな笑みが返ってくる。相手も疲れている、と直感した。翡翠の瞳に僅かな翳りを見たのだ。一度店へ戻るべく行き先を定める。風の無い午後だった。鋏の絵が刷られた江戸紫の暖簾は、ひたりともそよがぬまま、両者は肩を落としてくぐる。

 にゃあ。誰も居ない店の奥から猫の声が響いた。驚いて顔を上げる鋏屋の目に、ころりと転がって姿を見せたのは、古物屋の生首だった。

 

  • 愉快な怪談

 絶叫。涙。恐怖。そして遁走、だけは辛うじて執事に引き留められて阻止された。ちょうど使い古された座布団へぽすんと収まった古物屋の首は、どうも胡散臭そうに狂乱の若者を見上げてくる。「なんだ、情けない悲鳴あげやがって。探し回ってたんだろうがよ、この俺を。もっと喜べよ」いや、そんな無茶な。達磨のように踏ん反り返る、一頭身の捜し人に恐る恐る向き直った。こういった再会の仕方はまったく予期していなかったどころか、望んでもいなかったのである。

 しかし猫のように煌めく黄金の瞳は生き生きとしているし、聞こえてくる声も幻聴では無さそうだ。童話の中では猫の首を落としても無駄であるという前例もあるので、大方その辺りの理屈を上手く魔術の式に応用したのだろう。ただし真相を聞いたりはしない。化け猫詐欺師が押し通すのは大抵が屁理屈だからだ。

 及び腰ながら、どうしてそんな姿になったのか、この間みつかった体の方はどうして水車小屋に放置されていたのか。本人なら知っているだろう事情の説明を乞うと、首だけの彼は得意げに口の端をつり上げた。

「詳しい事は支度をしながら語ろうじゃねえか。まずは俺の体を戻して貰うぞ。確か、葬儀屋の所にあるはずだ」

 

  • 亡霊行進

 それがどの種類の生き物であろうと、白昼堂々生首を抱えて歩く訳にはいかぬ。大鍋、旅行鞄、様々に入れ物を考えたが古物屋はどれも息苦しいの一点張りであった。困った。そんな折、傍らに居た執事が店番台の上にあった藤色の風呂敷をさらりと取って、あれよあれよと言う間に頭部を包んでしまったのである。抗議の声をあげようとした古物屋だったが、息苦し、くない、という控えめな感想を最後に、不承不承黙った。雇い主の一部は執事がそのまま抱えていくと申し出る。

 古物屋の話によれば、案内屋が持ちかけた相談が事の発端であったという。近く大きな不始末の兆しあり。それも全て我が身より出た錆び也。ついてはまず、護衛屋の少女を匿われたし。古物屋も重々気をつけろと言われていたのだが、真面目に聞き入れなかったばかりに、不意を突かれてまんまと生首になってしまったとか。彼にとって大姪にあたる少女の居所も葬儀屋が知っているという。いざ一歩外へ踏み出した所で、すうと目の前を浴衣姿の男性が通り過ぎる。濃厚な海の匂いを纏った、びしょ濡れの風体。雨でも降ったのかと思えど道は乾いている。顔には、半分が醜く崩れた鬼女の面。肌は血の気が失せて青白く、水を吸ってふやけていた。

 そんな馬鹿な。驚愕の声は無口を通す執事が漏らした油断か、風呂敷包みの化け猫のものか。言葉も無く見送ると、面をつけた男の後ろからも奇妙な隊列が続く。眼球を詰めた硝子瓶と共に踊る片目の男。額縁を掲げて行進する笑顔の画商。脚のはえたケーキが駆けてゆく。列成す無数の幽霊亡霊。その背後から、恐るべき勢いで走ってきたダークスーツの人影がある。

 首から上が無い。「なに呆けてやがる、鋏屋! 追いかけやがれ、この野郎。あれが俺の体だ!」叱咤に弾かれて和装の店主も追走を開始した。背後から古物屋の激励に似た晴れやかな罵倒が飛んだ。「あの能無し野郎めを逃すなよ!」確かに、頭が無いなら脳も無い。

 

  • 歪曲の聖者

 古物屋の体が向かう先、幽霊パレードの行き着く先、そこは商店街の入り口に設けられた観光客向けの窓口だった。道の真ん中に出迎える案内屋が立つ。身の丈を越す黒い旗。はためく布は紐で結い纏められており、尖った先端がまるで古めかしい槍のようでもある。鼓笛隊が纏うのに似た白い衣装、全てを平等に映す青い瞳。

 救済とは、解答である。迷う人々は常に答えの出ない問いを抱えているものだから。幽霊の群れはその解を案内屋に求めた。なぜ我らは救われぬ、なぜ我らはこのように迷い出る。休みも与えられず、丸い星を延々歩かねばならないのはどうしてだ。全ての道に精通したガイドマンはゆっくりと旗を片手で掲げて。

 斬、と。先頭に居た面屋の亡霊を鋭い穂先をもってして斜めに切り捨てた。なぜだ。どうしてお前の眼は、返り血に汚れようとそのように青く澄んでいる。問いに答えを。案内屋は穏やかに告げた。「そうしようと思っている訳じゃない。そうなっているから、ありのままで生きるだけだ」

 さあ、お前達も救ってやろう。歪んだ聖者はよろめき倒れようとしている面屋を脇へそっと押し退けて、後から続く一団を迎え撃つ。死した後も迷い出るなら、何度でも眠らせてやろうとも。彼の刃は迷わない。白衣に飛ぶ朱色で別人に染め上げられようと、瞳の色だけは変わらなかった。海より、空より青い。考え無しに突っ走っていた古物屋の体が慌てて引き返してきた。執事の手により、しゅるりと風呂敷の戒めを解かれて、軽く飛び出した首は、無事に肉体と巡り会う。指先で首の継ぎ目をなぞれば後は元通り。化け猫は白い牙を見せて笑った。「血相変えて戻ってくる訳だ。俺だってまだ命は惜しい、あんな偽者の聖人に関わるのは御免だぜ」

 

  • 絶海の涯

 百鬼夜行の出来損ないは先頭から順に片付けられていき、やがて誰も居なくなった。息一つ乱さず旗を振り下ろし乱闘の名残を振り払う。誰も案内屋へ近づく機を見い出せぬままだったが、ひとつだけ、駆けてくる小柄な人影があった。汚れた手袋を外していた案内屋は顔を上げて、驚いたように目を丸める。やって来たのは護衛屋だったのだ。

 彼女はぎゅっと一度唇を引き結んでから、更に速度を上げる。勢いを殺さぬまま両腕を広げて、ガイドマンの方へ飛び込んだ。彼は咄嗟に抱きとめる。はっと小さく息を呑んだのは、手袋を外した手で相手に触れてしまっているのに気づいたからだ。なぜ彼女は、

 この少女はなぜ、泣いているのだろう。普段は冷静沈着な護衛屋は涙と嗚咽を呑み込みながら珍しく駄々をこねた。一人であんな怖い事、もうしないでくださいと。ぎゅうと案内屋に取り縋ったまま、無我夢中ながらも正気を保って、少女は未だ少女の形を守ってそこに居る。

 歪みを正すのは容易では無い。しかし、歪曲したままであっても、この日常を営む事はできるのかもしれない。彼女の服が汚れてしまうという懸念を一度脇に置き、青年は膝をついて正面から抱き返す。――当人達の後ろで、今にも二人の間へ割って入ろうとする古物屋と、それを必死で引き留める鋏屋と執事を除けば、実に円満な終幕だ。護衛屋を寝台から連れ出した当人である葬儀屋はその光景を遠巻きに眺めた後、一人満足げに去って行った。

棺桶屋の主張

  • 百と九十三の幽霊

 これまでの人生で食べてきたパンの数を正確に記憶している、と断言する人間とは付き合わない方が無難だ。大抵の場合はほらを吹いているだけだし、万一にも本当に覚えていたとしたら、やはりそんな抜け目の無さ過ぎる人と縁を繋ぐのは恐ろしい。

 鋏屋は風通しの悪い画廊で棺桶屋と向き合っていた。本来は絵の商談をまとめるためのテーブルだが、画商の厚意で借りているのだ。蒸し暑い。綿地の薄い着物一枚でも汗ばむ陽気なのに、棺桶屋はワイシャツにシルクのベスト、スウェードのジャケットにフロックコートまで着込んでいる。しかし顔は青白かった。汗をかいている様子も無い。足元には真新しい木製の棺が置かれていた。

 せめてコートだけでも脱いでくれないものか。額へ新たな汗が生まれるのを感じながら鋏屋は手拭いで肌を清める。陰鬱に蒼褪めた男は聞き取り辛い声で自らの主張を繰り返した。

「鋏屋。この画廊は呪われている。憑かれているんだ。百と九十三の幽霊がそこかしこにひしめいている。早く手を打たないと大変な不始末が起こるぞ」

 

  • 百と九十一の幽霊

 弱り果てている鋏屋の背後で、執事は落ち着いていた。書斎の机で役目を待つ羽ペンのように、静かな佇まいで成り行きを見守っている。この従者に霊感は無い。鋏屋も同様だ。悪い事に後者は大の怖がりときている。いっこうに話の進展しないテーブルから視線を転じ、翡翠の瞳が画廊の奥を見抜いた。額縁をせっせと磨いている陽気な画商。執事に気づくと気持ちのよい笑みを向けてくる。愛想がいいのだ。

「しかし、棺桶屋。その……言い辛いんだけど、百人の幽霊なんて」「百と九十三」「きゅ、九十三……?」「百と」「ううん……でも見ての通り、画商さんだってあの通り元気そうだし。確かに空気は籠ってはいるけど、寒気より寧ろ熱気を感じるくらいだ」なにをそんなに恐れる。商売所の一角を快く貸してくれた画商の近くで、この場が呪われているといったような話をするのは忍びない。鋏屋は、はやくかえりたい、という本音が顔に出てしまっている。

「鋏屋が動かないなら、おれが始末をつける」棺桶屋はコートの内側からぎらりと光るナイフをちらつかせた。画商からは棺桶屋の背中しか見えないだろうが、対座の鋏屋からはばっちりその不穏な光景が見えてしまった。息を引きつらせて和装の店主は慌てる。「よ、よせよ、どうしてそんなに思いつめるんだい。百と九十一の幽霊だか知らないが」「百と九十三だ」「そう、そうであったとしても。その幽霊が悪さをしているようには見えないぜ。な、よしなよ。お前がしようとしているのは、そう、いずれ必ず風邪を引くに違いないと、全ての人間にあらかじめ風邪薬を飲ませるようなものじゃないか」

『一部の漢方は、風邪の諸症状が出る前に服用するのが効果的と言いますね』執事が筆談で呑気に口を挟むと、益々困り果てた様子で振り返ってきた。執事さんはどっちの味方なんだい。すっかり寄る辺を無くしてしまった青年店主に微笑みかけてから、金髪の使用人は画廊の奥を指した。鋏屋と棺桶屋が振り返る。そこには、金属製の重厚な額縁を、今にもこちらへ投げんとする画商の異様があった。

 

  • 百と九十七の幽霊

 辺りかまわず手当たり次第に物を投じるというのは、シンプルで稚拙だがそれなりに有効な攻撃手段である。慌てふためく鋏屋の手を流れるように取ってエスコートすると、ひとまず席から立ち上がらせた。棺桶屋も危険を察知した黒猫のような機敏さでテーブルを離れる。木製の机に悲惨な悲鳴を齎して額縁は衝突した。画商は、相変わらず愛想が良かった。陽気な笑みと共に、手近な物品を恐るべき勢いで投じてくる。壁にぶつかるレジスター、カーテンを裂くカッターナイフ、窓硝子を割るペン立て。鋏屋が悲鳴に交えて問う。これも百九十七の幽霊の悪行かい!

「百九十三だ」棺桶屋はすっくと立ち、ナイフをダーツのように構える。「だがその数は誤りだった。正確には、百と、九十四」

 刃は銀の筋となって飛んだ。目指すのは飾られていた一枚の絵。題名には、百と九十四の幽霊とある。画商の獣じみた絶叫が木霊した。やめろ! だがそれも虚しく、絵はばっさりと斜めに切り裂かれた。

 それと同時に画商の体にも同じ太刀筋があらわれる。手負いの猛獣が余力を振り絞って棺桶屋に飛びかかった。その間に割って入る鋏屋の手には小回りの利く脇差。姿が見えず正体の知れぬ幽霊には怯えども、実体を持って躍りかかる獣の類なら恐れるに足らず。精密に首を断ち、強襲を退ける。屍は残らなかった、まるで煙のように手ごたえも無い。ただ、耳に残る雑音まじりの断末魔だけが響いていた。

 

  • 百と九十四の幽霊

「百と九十三と数え違いをしていたから謎が解けなかった。あの画商もまた絵の幽霊、一枚の絵に姿を変えていた数多の幽霊だ」

 結局、百と九十四の幽霊なのだか、一枚の幽霊だったのか。画廊のあった場所はただの袋小路で、そもそも建物すら無かった。両側にそびえるビルがもたらす閉塞感と、店内で話し込んでいるはずが実はずっと屋外に居たという矛盾のせいで、あれほど暑く感じたのだろう。

 棺桶屋は足元へ置いていた棺の蓋を開けて、地面に落ちている破れた絵を仕舞い込んだ。ぼそぼそと相変わらず聞き取りづらい口調で礼を述べると、そのまま立ち去って行った。

 残された鋏屋と執事。和装の刃物屋はうなじの辺りを掻いてぼんやり呟く。それにしても画商はなにがきっかけで本性を見せたのだろう。最初から襲う算段であったらもっと良い機はいくらでも見極められたろうに。考え無しに物を放って来る戦法からして、あれは咄嗟の思いつきで行われた荒事に違いあるまい。執事は相変わらずのんびりと応じた。『よほど、風邪薬を飲まされたくなかったのでしょうね』